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雨に鳴くミミズ(72侯/蚯蚓出)

まだ土ばかりの畑と畑の間の道を歩いていてふと、気がついた。
ミミズが、出てきている。
岩と石ばかりの荒野だったこの土地を数年がかりで開墾して、昨年ようやく土が柔らかくなった時に、土壌改良薬と一緒にミミズの卵を蒔いておいたのだった。

思えばここにきてもう数年経つ。
見渡す限り乾いた荒野だったのに、今では地平線の先まで開墾された畑だ。

私が火星プランテーション計画の一員として火星にきたのは、数年に渡る大気改良が終わってようやく地球人類が装備なしでも屋外で活動できるようになった頃だ。
その頃にもすでに藻や苔に似た植物によって光合成は行われていて、大気中の酸素は賄われていたものの、これから本格的に移住を進めるための次の段階として、農地耕作が目標として掲げられていた。
将来的には火星で作ったものを火星で食べるようになる、ということだが、まあ当面は地球や月からの輸入品に頼ることになるだろう。最近の合成肉や乾燥野菜はまるで本物みたいにうまい。

火星農業基地の周りを何ヘクタールも放射状に耕された畑には、今はまだ何の種も苗も植えられていないが、来年からは本格的に野菜や果物を植えていく予定になっている。

私は道端にかがみこんで、地面から顔を出したミミズを観察した。
火星の過酷な環境に適応するように遺伝子改良されたミミズだというが、見た目は地球のミミズと変わらない。
茶色くて、にょろんとしている。
じっと見ていると、少しずつ動いている。
いま視界の中には土とミミズだけで、こうしていると、ここが火星だということを忘れてしまいそうだ。
このまま振り返ったら実家で祖母がレモネードを作って待っているんじゃないか、と思った。

みっ。
みっみっ。

ぼんやりと物思いしていると、そんな音が、何処かから聞こえてきた。
遠いような近いような。
何処かに音の発生源があるのではなくて、自分の耳元で突然音の種が弾けたように感じる、不思議な音。
最初は空耳かと思ったら、その音はコップに注がれた炭酸のようにどんどん弾けて行き、まるで火星の空の下がみみみみ、という音のするソーダ水で満たされたコップの中になったようだった。

ふと、土の中に手を入れて、ミミズごと両手ですくい上げてみる。

み、みみ。

こいつ、鳴いてる。
いや、鳴いているのではなくて、何らかの方法で音を発しているのか。
とにかく、音の発生源はミミズであるし、地平線まで続く畑に満遍なく散らされた卵から孵ったミミズたちが鳴いているのなら、音が何処からするのか分からないはずだ。
音が何処からするのかというのは、前後左右全ての畑からだ。

み、み、という音は次第に大きくなり、まるで耳の外から聞こえる耳鳴りのように私の周りで反響する。
そして、空が暗くなった。
農業基地の中央塔から定期的に発生させている人口雨雲だ。
その時間までには戻ろうと思っていたのに。
すぐに雨雲は空じゅうを覆い尽くし、大粒の雨が降り始める。
私の作業着がぐっしょりと濡れ、ミミズの声はますます大きくなる。
雨が止んで地平線の先に虹が出るまで、私は土にまみれた手を拭うこともしないでそのままそこに立っていた。

火星に適応するように遺伝子改良されたミミズが何故か音波を発すること、それが雨の降る直前と最中に限られることが判明してからは、それは火星観光の名物となった。
火星ミミズの鳴き声を楽しみ、雨上がりの虹を眺めて、火星産の野菜と果物を食べるアグリカルチャーツアーが地球からの観光客に人気となったのだ。

私が火星ミミズの生態について解明し、論文で博士号を取ったのは、それからずいぶん経ってからのことだ。
最近は中学校の修学旅行までが火星を訪れるようになった。
農業と観光で火星は繁栄し、私は月や地球に出張することもありながら、定年まで火星農業基地に勤めた。
火星の土に埋められて、最後は火星ミミズに分解されるのも悪くないと、最近は思っている。

おもに日々の角ハイボール(濃い目)代の足しになります