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愛をめがけて

灯台の話だ。

わたしが少女から大人になるまで、そして今も、ずっと地続きのどこかで生きている人。ここにいるよと光り続けている人。

わたしにとってあの人の音楽はしなやかなシルクのようだと、ある日ふと思った。人生を美しく包んでくれたり、脆くなった部分を補強してくれる。

あの人が魂を削り出し、命を燃やすことで放つ光を、これまでずっと10年以上、わたしはそうやって大切に受け取ってきたけれど、その光を生み出す作業は、どれほど孤独で苦悩に満ちたものなのだろう。「自分はいちばん嫌われる役割でいないといけない、その覚悟がある」そう言ってのけたあの人が自分のことを「自業自得のひとりぼっち」と書いたあのコラムからは、涙の気配がした。

聖人ではなくて、ましてやコンテンツなどでは絶対になくて、こんなにも生きているから、怒るし、悲しむし、誰かを大切に思う。冗談を言ってすべって気まずそうに笑ったりもするし、ナチュラルに人にきついことを言ったりもする。その人間じみたすべてがわたしには、たまらなく愛おしかった。いつでも。

Aqua Timezが終わってLittle Paradeが始まったとき、わたしはとても複雑な気持ちだった。わたしはあの人に憧れていて、尊敬していて、あの人のつくる音楽が大好きだけれど、やっぱり5人を見守ることのできるあの空間で、汗まみれ涙まみれで声を枯らして生きていたかったから、それまで通りに愛せるか不安だった。

ツアーの申し込みには少し勇気が要ったのだけど、愛しい影が現れた瞬間に「会いたかった」と泣くことはその時点で分かりきっていて、案の定そうなった。会いたかったという思いが、瞳からこぼれ落ちて止まらなかった。千の夜をこえてまた会えたことがうれしくてたまらなくて、ずっと見ていたいと、この人をずっとずっとどうしても見ていたいと強く思った。この夜のために生き延びてきたのだと分かった。永遠に続いてほしいと願うほどの夜なんて、人生でそんなにたくさんは訪れない。

「Aqua Timezの音楽は前向きですよねってインタビューのときよく訊かれたけど俺はそうじゃないと思ってる。前向きだけど・・・その前に何があったのか。その〝・・・〟を知ってる人たちが今日ここに来てくれてると思う」という言葉に、あの日いちばん泣いた。

全部なんて分かっちゃいないし分かれる気もしていないけれど、前向きなわけじゃないやさしいわけじゃない、その〝・・・〟を反芻して抱きしめて前を向こうとするやさしくあろうとする、そんなあの人の誠実さだけは見つけ出せたつもりでいる。誠実だからこそ歌わなかったAqua Timezの歌も、大丈夫、ひとつも減らないし、なくならないよ。わたしが歌うから。わたしたちが愛して繋ぐから。懐かしいなんて絶対言わない。

わたしが中学生のころだろう、あの人が「だいじょうぶ 大丈夫だよ」と、しゃがんで目を閉じて歌っていたあの姿を思い出すと泣きそうになる。あのころその言葉を誰よりも自分に言い聞かせていたのだろうな、自分のつくった歌に背中を押されることがあるとあの人は言っていた。ぼろぼろに泣くわたしを見つめて歌いながらうん、うん、うんとうなずいてくれたとき、わたしの濡れた瞳の中に自分を見ていたのかもしれない。

こんなにも救われて、与えられるだけで、あの人は心を削るばかりで、いったい何を返せるというのだろう。わたしはあまりにもちっぽけで、照らし返すことなどできやしない。願い続けているのは、あの人のこれからの一生が、美しいものであふれますように。出会うのが善い人たちでありますように。それだけだ。

大丈夫じゃないよ置いていかないでと泣いたあの最後の日から、もう会いたくて会いたくて、彼らが終わらせた日々の中にわたしはいつまでも立ちすくんでいたくて、何も始まらなくていいから何も終わらせないでほしかった。

それでも立ち上がり、未練がましく振り返りながら歩き出し、望んでいなかったはずのあたらしい宝物を腕いっぱいに抱きしめるわたしを、いつまでもあのやさしい、失えない光が導き、包んでくれている。

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