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見る、見えるの話

ということで早速。

個人として、違いを指摘される部分には、

見える=普段の生活で特段意識しなくても、目に映るという状態での見える

これが、違いすぎてておかしいだ、あり得ないだ言われることも多いです。

そういう部分について、個人として掴んでる事を書いて行こうと思います。

うん。

なお、ほぼほぼ個人の経験談ですし、文字だけでは伝わりづらい部分が多々あると思いますが、何かしらの切っ掛けになってくれれば…とも思います。

そして忘れずに!

毎回読まなくていいですし、無理して読まなくてもいいです。

ただ、注意点とか書いてたりするので、よければどうぞ。

ということで行ってみましょう。


え?見えるじゃん?

何でお前はそんなに…と周囲から違いを指摘される。

幼稚園に通いだして、少なからず外部での集団生活を送るようになってからというもの、見える、見えないという部分では、相当にありました。

というか、今でもあります。

何で気づくのか?

いやさ、見えてますよね?

その結果、相手=見えてない、私=見えてるという事になりますが、見えてるものや状況によっては、説明すればナルホド…と納得してもらえるケースもあるにはあります。

そういうケースでも、”意識してみないことには、それは見えないんだが?”と返されてしまい、うーん?と、お互い頭をひねる、なんてこともね。

ただ、こういうのは、見える見えないの違いを、何度か同じ集団にいて繰り返して、ようやく巡り会える状況というか。

未だに信じられないし、見えないんだけど、こいつはいつもこう言うんだ。

そういう感じで周囲に、私との差について他者が促すと、途端に1対他になってしまう…。

運が悪いと、これが切っ掛けで、おかしい、あり得ない、嘘つきという感じで、否定されるだけでなく、違いが受け入れられないからこその差別みたいな扱いもされてました。

というかですね?

HSPがブームになってると知った時点で、これは良くないことが…って想像できたくらいに、物凄い難しさがあるというのを幼い頃から実感してたんですよ。

おおよそ、人の認識で一番強く作用する、目で見る、視認の部分が違いすぎるわけですからね。

そしたらまぁ、頭いてぇなんですが、それは別なお話なので止めておきましょう。


目、視認について

こういうのも、学術的とか、医学的とかに突っ込んだ話をすることは出来ません。

ただ、個人として否応なしに違いを指摘されるほど。

そうあるせいなのか、意外と飲み込みは早かったり、完全な理解はできなくとも知って応用をするという事が出来たりもします。

なので、雑学王とか物知りとか言われてた時期もありました。

個人として知り得てる内容で、簡単レベルではあるものの、扱えるのが色の見え方についての話。

これは、物体が反射する光を目が受け取ることで、色として見れるものだそうです。

検索してみるとこういうのが出てきました。

そして、個人として色を出すのも、幼い頃から絵を書いて色を塗らせると表に出てたというのが理由にあったりします。

小2くらいの時の、外に出てのスケッチの授業。

これは、学年全体でまとまってやってたのですが、色を塗りだした途端に担任が見て評価してくれたんですね。

ただこれも、私にとっては、

え?見えるてし、見えたとおりに色を塗るって言ったのは先生だから、正直に塗ったんだけど…

評価されたとは言え、その時点で自身の色々が抜きん出てしまうことで叩かれるってのを何度と無く経験してたので、おっかなびっくり、恐怖とか不安になったんですよね。

なので、記憶に焼き付いてしまってます。

そして、まだ続きがあるというか。

気づいた担任が、他のクラスの担任も呼び寄せて意見を聞いたんですね。そしたらまぁ、年齢の割に凄いよねという話になり、そこから絵画コンクールに出典だなんだになったわけです。

でもねぇ。

ほんとこう、悪い意味で記憶に残ってる部分もあるというか。やっぱり評価されすぎる=周囲の同級生には邪魔になるからこそ、イジメに合うとかもあったので、止めてほしかったんですね。

いい部分だから、自信を持っていいからって言っても、イジメを受けるし、イジメられると逆に先生たちは助けてくれず、私の大人しさからくる悪い部分を寧ろつつくという感じだったんです。

まぁ、ネガティブな影響を受けやすい環境に居たんですよ。ほんともう…

と、少し余談が過ぎましたが。

目は光の眩しさを感じる部位でもあるんですね。

なので、光に対して眩しさの影響を受けやすいだけでなく色の見え方や、色の見え方が違うからこその物の見え方にも差も生じる部分になるわけです。

個人として、感覚過敏は違うというのは、感覚過敏って苦痛を訴えるからこそ、病院で…という側面もあります。

なので、問題がないレベルでの光の感じ取り、と言う部分にも着目できないとダメですよね?

という感じで、目が何を感じ取るのか?と言う部分から、順を追って話していくと、こういう事にもなる、と。

また、そうはいっても自分が見えてるものって、自分にしか理解できないものでもあります。コレは誰しも同じと言うか。

それ故に差が有りすぎると、おかしいだ、あり得ないだ、色々言われもしたんですよ、個人としては幼い頃から。

光ってこう中心から、外に向かって筋が伸びてる様に見えることもあると思います。

その中に、RGBがくっきり見えるんですよね。

光の筋に、赤青緑が見えるんじゃあああ!→はぁ?お前何いってんの?

いくつになっても、どうしても見える見えないの差が、ね。

なので、結構見えてても言わないなんてことも多くなりました。


その他に見えるものとして

これが、結構厄介というか。

相談に乗った際にも、何でそんなに気付けるのか?と問われると、

え?見えてるじゃん?

と、返してしまうことで、何言ってんだ?とか、そんなのまで見えてるの?とか言われもします。

人の細かい仕草、様々な部位の些細な動き、話してる間に見せる回数によるクセとしての把握、他色々。

個人としては普通にいつも見えてるんですよね。

かといって敢えて気を遣うみたいな行動を取ると逆に不快感を示す人もいる。

なので、

「いやー何でか不思議とね、そういう風に見えたというか、多分というか、可能性というか…」

と、誤魔化すという言動を取ることも相当に多いです。

相談なんかでも、え?見えるでしょ?ってもう、何でか自然と返してしまうので、後で取り繕う事にもなるし、取り繕ってもおかしすぎるので、多分とか、不思議とという話にしたほうが伝わりやすくなるということも、何度と無く体験したせいで、個人が持ちうるデータみたいになってたりもします。

また、人に限らず動物なんかも、ね。

やっぱり感情は持ち合わせてるので、そういう部分での機微が見て取れますし、だからこそ人と同じ様に接するというのも自然にやってしまいます。

そのせいか、飼ってるペットという存在からは、不思議と好かれやすくもなるというか。

飼い主に対して、ちょっといま触れてほしくないって態度とってるから、触らないほうが良いよ、とか言ってしまい…。

あんたに何がわかる!と言われるわけですが、会う回数が増えるとそういう機微に気づいて対応する、そういう雰囲気が出てるからなのか、飼い主以上に好かれてしまって逆に妬かれるという事になる場合もあります。


更に突っ込んで行くと

目での視認というのは、人に作用する度合いが大きい

そんな言われ方すらも、”なるほどなぁ…”と納得するほどに、情報量って多いです。

また、その情報量が多いことから、脳がすごい勢いで処理してる事実=カウンセリングで言われた、自動思考が相当な勢いで働いてるというのも納得出来たし、そもそも自動思考って言葉に既に行き着いてて、逆に驚かれもしたくらいです。

目に入る情報量が多い。

だからこそ、感情の機微に対して気づきやすかったり、色の見え方が違ってて表現が細かったり、そもそも自動思考に行き着くほどに、脳が処理してる事を実感するのは、色々見えてしまうからこそと言う部分がある。

こんな感じで、目で見る、と言う部分だけでも、相当に奥深いというか。

まだまだ、書ききれない部分がありますし、何かしら切っ掛けがないと記憶から呼び出せないと言うこともあったりします。

今まで書いてた記事で、おなじ様な事を繰り返し書いてしまってたのも、そういう微妙な差が自分にとっては、明確かつ大きな差になるので、つい書いてしまってたというね。

目で見る、を掘り下げると、今まで書いてた記事に出てたおかしさすらにも行き着く。

それ程に深いんですよ。


そうあるからこそ

少なからず、触り程度でも、目の仕組みだ、人間に限らず動物や植物と接する上での経験だと、色んな話が出てきてしまうので、

はっきり言って相当に難しいと思います。

感受性って。

自分自身が違いすぎるからつつかれる、だけではなく。

自分自身でしか観測できない部分がこれだけあるので、人の数だけ差があると考えると、どれほどに広がるんだ?っていう現実が見えてくるんですよ。

で、こういうのって、普通に当たり前レベルです。

また、こういう目に見えるからこその影響を応用すると、暗黒物質とかそういう宇宙の話にも行き着くというか。

未だ直接の観測が出来てないものの、宇宙には暗黒物質なるものがあるという仮定がされてるだけでなく、観測のために実験もされてる、と言うところまで行き着いたりします。

たかだか、目に見えるということだけで、お前そこまで考えるの?とか言われるんですが、目に見えるからこそ考えないの?と逆に問い返してしまうんですよ。

目に見えるというのは影響や作用が大きい、なのに仮定や仮設でしかないのに、事実だけは出てくるというのは、目に見えるものが全てなのか?というところに行き着くんですよね。

言い換えれば、目に見える物が全てじゃないのでは?という可能性に気づくということです。

とはいえ、今後の実験や研究、観測の進捗しだいでは、今までは観測出来なかったものが観測出来るようになり、データとして目に見えるものになるかもしれません。

こう、ね。

目に見える、目が色々感じ取るということは、時に逆説を用いることにもなるし、可能性として仮定するからこそ実験を行う動機にもなり得るし、それ故に研究にハマる研究者も生まれる。

目に見えるだけで、色々繋がって、世界がすっごく広いものに映ってしまうんですよ。

そして、個人としては、ね?

そうなるのが普通なんだけど、違うの?となってしまい、

そんなヤツ会ったことないわ、お前おかしいんじゃないの?

ってね。

私自身としては、コナンくんになるんですよ。

あっれれぇ~?おっかしぃぞぉ~?って。


あとがき

いや、このくらい普通ですよね!?

見えますよね!!!(迫真

という、ちょっとしたお遊び半分も最期に盛り込みつつ。

目に見えるだけでも、何ていうかなぁ。

相当に奥深いと思います。

個人としては、動物に対しての接し方というのも、目が関わるんですよね。

目線を合わせようとしゃがむだけでなく、可能な限り小さく見えるように、人間としての意識的な部分がもれないように、姿形は違ってても同じ存在だよって感じてもらえるように...と、自然と色々配慮をしてしまいます。

また、インコを飼ってた時も、不思議と目を合わせに行こうとしてたんですよね。

それに対してあっちも気づくからか、しばらく見つめ合ってるという状況もよくありました。

なので、目ってすっごく大事と痛感してますし、だからこそ、感受性の話をするのに、経験談だけで語るにしても、目で見える、目を合わせるという色んな話が出るのが当たり前じゃろ?

なのですが...。

何で、そういう話が見られないんですかぁ!?

いや、私もこうして改めて触れるまで書かなかったわけですが。

うん。

目で見えるというのは、色々把握することにもなるし、把握できるからこそ気づけるという事にもなるし、寧ろ自分が見えずに周囲の方が見えるんだから、他者の話が出て当たり前、なんですよ。

色の見え方が違う=何で違うのか調べる→光による影響だと知れる

目が受ける光ってのは、眩しいばかりでも無いです。寧ろ、そっちの方が多くを占めてるんです。

と、あとがきがいつも通りくどくなりそうなので、この辺で。

なんでかなぁ...。

ホント。

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