ハッピーバースデー


 ハローこんにちは、なまむぎなまこです
 今日は誕生日なので、自分の誕生を自分で肯定する記事を書いてプレゼントにしたいと思います

 私は平成7年に、日本ではないとある国で生まれました。朝焼けの美しい日だったと聞かされているので、そのためにか今でも深夜より早朝が好きです
 私はきっと育てにくい子供だったでしょう。大人になった私は、自分が発達障害であることを知っています
 そればかりが起因ではないでしょうが、母はかつて、まだ3歳にもならない私と心中を図りました。
 物慣れぬ外国暮らしの生活もあったでしょう、まだ差別の色濃い時代に、馴染んでいけない幼い兄の姿も悩ませたでしょう。
 小学五年生の時に、私は母の口からその事実を聞きます。
 以来、私は「生まれてきてはいけなかった」と長く思い込むようになりました。私が生まれたことは大好きな母の苦悩の種であったのだと、母が生きていくことに絶望を招いた存在なのだと、このとき私は強く思いました。私を生み出した母によって「生きていても幸せになれない」と思われた、それが私でした。
 私の生命を害そうとしたそのことに、恨みはありません。ひとは誰でもいっとき迷うものだと、私を産んだ母の年齢に近づいて、知ったからです。そのときの母に何が起きて、何を悩んだのか、私は知りません。親子であっても他人の苦悩を肩代わりすることなどできません。だから、彼女の中にはそのとき確かに地獄があって、その一因が私であったならば、どうして私が母を呪えるでしょうか。
 いえ、恨んだ時期もあったと思います。つまらない悩み事に囚われ、生きることに倦んだとき、「いっそあのとき殺してくれていれば」と思ったことはあります。
 でも、それはもう、私の人生の責任を母に押し付けた、稚拙な他責思考だったと今では思います。

 私は、長い間、母の顔色ばかり気にして、進路のような大事な選択をすべて、親の気にいるように選び続けました。母の勧めた中学を受験し、母が行ってほしいと言った大学を選びました。そうし続けていれば、母が生きてくれると、私をかつて生かしたことを後悔しないと信じていたからです。
 その分、学校には随分迷惑をかけました。授業を脱け出すことしばしば、勉強は気が向いたものしかしませんでした。家庭ではなく、学校に甘えていました。10代の頃、学校生活の思い出はたくさんあるのに、家でどんなふうに過ごしていたか、思い出すことができません。
 でも、この奇妙なバランスは、親元を離れた大学への進学によって徐々に壊れました。親の言うがままの暮らしに対する違和感、自分自身のやりたいことがわからない苦痛の中で、ひたすらに勉強ばかりしていました。文学の世界がとても好きでした。物語に書かれた苦悩や戦いや死や喜びや愛は、模倣すべき正解のように思えました。登場人物の感情に触れる時、空虚な私の殻を離れることができました。
 勉学に親しんではいましたが、大学院への進学は、思うようにいかないことばかりでした。何度も死にたいと、死ぬべきだと思いました。やがて追い詰められた大学院での生活の中で、双極性障害と発達障害の診断が降りて、SNSでは心無い言葉を投げられて、本当に死のうとしたことがあります。ある日、大量の鎮痛剤を服用して救急車で運ばれました。搬送先の病院で何十回も吐いて、翌日には母が飛んできました。彼女は泣いて言いました。「親は子供が幸せじゃないと不幸だ」と、そんなことを言われて、私は、人生で初めて、親に対して痛切な怒りを感じました。

 「幸せだったことなんか一度もない」
 吠えるようにそう言って、私は母に背を向けました。母はひどく泣いていました。「いったい何があんたの幸せなの?」と、泣きながら私の背中に言いました。私にもわかりませんでした。私がずっと知りたかったことでした。私がずっと、母のために、母が生きてくれるために、今まで見向きもしなかったものが、私の幸せでした。そして、幸せになれるものがわからなければ、ひとは生きてはいけないのでした。

 その年、何もかもが無価値に思えて、本当に本当に死んでしまおうと思って計画を立て始めました。一月に、誕生月に、来週に死のうと思って、計画ばかり立てていました。実行に向けて持ち物を整理し、遺書を残し、具体的な手順を調べました。

 でも、3月に、高校時代の学友が亡くなったと連絡がありました。葬儀の席で、私は悲しみに打ちのめされて泣き喚いて、何日も泣き通して、それから、翻って、「私は生きよう」と思いました。
 彼に、ただ生きて欲しかったからです。時間が巻き戻って、彼に会えるような奇跡が起きた時、彼が生きる道を選ぶ根拠になりたかったのです。ただ生きて欲しかったと、ひとに対して願ってようやく、ひとには望むその道を、ただ生きることを、自分でも選んでいかなければいけませんでした。

 生きようと思って初めて、自分を見つめ直さなければならないことに気がつきました。生きることの良さを見つけながら生きていくには、自分の幸せを見つけなければいけませんでした。
 実際には、死ぬことをやめて生きることは、苦痛に満ちた現実の中を這い回らなければならないことでした。だから、何度となく「生きよう」と「死んでしまおう」の間で悩みましたが、何年も、過去に戻って彼に会って、説得できるような幻想を捨てられませんでした。その幻想のために、歯を食いしばって生き続ける時期がありました。本当に「生きよう」と思ったタイミングがどこであったのかはっきりとは思い出せませんが、何度も悩んで、悩むごとに、最後には「生きよう」と思えるようになりました。
 説得のためであっても、一度生きると決めてみれば、人生はいつも楽しげな予感に満ちていました。明日があるということは、明日のために今日を生きるということは、可能性の中に飛び込んでいくことでした。そしてその可能性はいつも、人生をより良くするための方法を考えさせました。

 休んでいた大学院に復学し、研究のテーマを、本当にやりたいと思ったテーマに変更しました。
 そうすると、研究漬けの生活が一転して楽しく興味深いものになり、文学の世界は再び奥深く神秘的で、それでいて努力を積み重ねればその真意に近づけるような、彩りに満ちた素晴らしい世界として現れました。2年の研究生活を経て提出した修士論文はなかなか良い評価を受けて、修了するころには、もうあの休みのない研究の日々が懐かしくて寂しくてたまらなくなりました。生きていかなければいけないという義務感は、いつの間にか、生きていきたい、生きていける、に変わっていきました。そこに、もう母の顔色はありませんでした。母の幸せは母が見つけるものであり、私は私の幸せを見つけて、私のために生きていくことが、ともすれば母をも幸せにすると、素直に思えました。ひとはきっと、どんなに大切な人であってもその不幸も幸福も丸ごと肩代わりすることはできなくて、ただ自分の人生を生きることしかできないのではないでしょうか。親であっても子であっても、臍の緒が切り離された瞬間から、もう一つの塊には戻れないのでしょう。私はたぶん、母の不幸を吸い取って、母の幸福の道具に成り代わりたかったのです。そうして自分の幸せがまったくわからなくなって、結局のところ母をも幸せにはできませんでした。
 だから今は、自分の人生をただ、幸せになれるように生きようと思います。

 仕事帰りの星空が満天だった時、寒い外から帰って温かいお湯に浸かる時、美味しいご飯を食べた時、朝焼けが美しかったとき、幸せだ、と感じるようになりました。幸せは、探す必要もなく、どんな状況でも、至る所のあちこちにありました。
 収容所での生活を経験した精神科医・フランクルの『夜と霧』には、収容所を生き抜いた人々は、身体が頑健な人ではなく、「今日の夕陽はなんと美しいのだ」と感動できる人であった、と書かれています。
 それを真似てではありませんが、生きていこうと思います。全き完結した幸せではなく、小さな感動や幸福を集めて、それをしっかりと覚えて、苦難にあっても、生き続けたいです。

 ようやく、この歳になってではありますが、私は自分の人生を始めています。ちゃらんぽらんでもみっともなくてもいいから、自分が幸せになれる道を探そうと思って、いまは色々と模索しているところです。そこに手が届くような、手が届くまで頑張れるような、希望のような自信があります。不幸も苦しみも、今やすべては自分が引き受けるものであり、そこから学び取って、よりよく生きられるような自信が、今はあるのです。

 この先、どんな苦境に際しても、思いもかけない不幸があっても、朝焼けの美しい日に生まれたことを、喜びたいと思っています。

 誕生日おめでとう。生まれてきてくれてありがとう、生きていてくれてありがとう、これからもよろしく。

20240201
なまむぎなまこ 拝 

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