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インタビューライターとしての私の「小さな喜びと大きな幸せ」

「私には何もない」ということが、長年のコンプレックスだった。

そんな私が、30代でライターになった理由は、「ただ、書きたくなったから」。
正確に言えば、「ずっと書きたかったから」。

アメリカ・ワシントンDCに駐在員妻として暮らしていたある日、その思いが爆発。衝動的に突き動かされた行動によって、「では翌月からライターになってください」と言われる、という経験を経て、今がある。

「ライター」と一言で言っても、その仕事内容や執筆形態は幅広い。この15年、運良く、先輩ライター、編集者さん、制作会社の担当者、クライアントさんとの出会いを重ねながら、色んな経験をさせてもらった。

一度も、「書くのがいやだ」と思ったことがないのは、とても幸せだと思う。

ライターとしての小さな幸せを羅列したらキリがないけれど、神様に「ライターという仕事をくれて、ありがとう」と、私の中にある感謝をひとつ伝えるとすれば。

「”私には何もない”と思っていた私に、役割をくれて、ありがとう」ということだと思う。

「私には何もない」ということが、長年のコンプレックスだった。

漠然とした不安から、お勉強だけはコツコツとして、成績はよかったけれど、高校生の頃から、「私には、圧倒的に秀でるものがない」と本気で悩んでいた。
周りと調和することを最重要に置いていたので、オリジナルの言葉で何かを語ったりすることが苦手だった。
極度の恥ずかしがりやで、アイドルから小説、映画などについて、自分の「好き」「嫌い」を誰かに伝えることさえ恥ずかしくて、できなかった(この感覚、誰に言っても理解されない)。

私がしているようなライターの仕事は、ジャーナリストの仕事とは違って、自分の意見を主張しなくていいし、主張するべきではない。自分はフラットでいながら、「自分ではない誰か」の主張を伝えることが多い。

私の仕事は、「専門家」「何かに秀でた人」「語るべきことがある人」、さらに、「本人はどこにでもいる普通の人だと思っているけれど、オリジナルの魅力をもっている人=すべての人」の話を聴き、文章にまとめ、誰かに届けること。

つまり、それ自体が私の「専門性」になっている。

人の話を聴くことが好き。文章を書くことが好き。ただそこに、「専門性」を与えてもらって、それが幸せだ。

「自分は何者でもない」という感覚は、ライターをする上で、役立っていると思う。

常に、目の前で語ってくれる人のことを、「すごい」と尊敬できるし、「わからないことをわからない」と聞くことにも抵抗がないタイプだと思う。

以前、制作会社の担当者に、「なまずさんは、誰をインタビューするときも、どんなジャンルのときも、常にフラットで透明ですよね」と言われたことがある。

確かに、プライベートでは、たまに「濃い」と言われたりもするけれど、仕事のときは、「自分は何者でもない、透明な存在」という感覚に戻るし、何年この仕事をしていても、「こんな私にお話してくださり、ありがとう」という気持ちは変わらない。

今日も、専門家に1時間余りのインタビューをさせてもらった。
とても思慮深く、視野が広く、温かい言葉をたくさんもらった。お話を聞いていて、私自身も、気持ちが救われる気がしたし、これを多くの方に伝えられたら、救われる人がいるのではないかと、ワクワクしながら、文章にしている。

私が何者であるかは、関係ない。私はただ、感動とともに、忠実に、そしてわかりやすく、「誰かの言葉を伝える」ということに徹する。

意外に、そんな地味なことに、喜びを感じながら仕事をしている。幸せなことだと思う。

最後までお読みいただき、ありがとうございます✨💕