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日向坂46・藤嶌果歩さんから考える、「置かれた場所で咲きなさい」の解釈

先日のこちらの藤嶌果歩さんのブログの一節を読んで、「まだ17歳なのにレベルの高い考え方をしててすごいなぁ」と感心してしまいました。その一節を以下に引用します。

最近ありがたいことに毎日忙しくさせていただいて、目標に向かって頑張っている最中なんですがやっぱり私って一生懸命になるのがどうも苦手で、あと一歩で諦めかけちゃったりあぁ疲れちゃったなぁって思って100%出し切る前に放棄しちゃう事が多いんです

昔からのダメなとこ。

本当に今が四期生にとっても自分にとっても大事な時期だから試行錯誤して私なりの頑張り方を模索中なんです

きっと私は頑張る事が義務になるとしんどくなっちゃう人で、だからそれを義務化するんじゃくて自ら 頑張りたいから努力する、って考えに持っていかないとだめなんです

(中略)

こんな私のことを応援してくれてる方がたくんいるんだと思ったら、
もっと自慢の推しになろう!って気持ちがすごく湧いてきて
私の出来る最大限のパワーでたくさんの人を笑顔にしようって
前向きな気持ちになれたんです

みなさんの存在が私の頑張る理由です

女子高校生に化けてみた」より(※脱字等も原文ママ)

どのあたりに感心したかというと、「ゴールをずらさず、コントロールできることに着目している」点であり、それはまさに「置かれた場所で咲きなさい」の体現だよなぁというところです。
そんなことについて書いたのがこの記事になります。


「置かれた場所で咲きなさい」とは

シスター渡辺和子さんの経験

松田好花さんが「大好き!日向坂46〜2023〜後編」で挙げていたり、宮地すみれさんもこちらのブログで大事にしている言葉として挙げている「置かれた場所で咲きなさい」。シスターの渡辺和子さんの著書のタイトルになっている言葉です。

幻冬舎の作品紹介をそのまま引用すると、

時間の使い方は、そのままいのちの使い方。置かれたところこそが、今のあなたの居場所なのです。「こんなはずじゃなかった」と思う時にも、その状況の中で「咲く」努力をしてほしいのです。

置かれた場所で咲きなさい」より

こんな感じで、人生の指針になりそうな内容であることが伺えます。

この言葉自体は渡辺さんのオリジナルではなく、渡辺さんが出会った英文の詩のタイトルで、その詩が以下だそうです。

“Bloom where God has planted you.”
「神様が植えて下さった場所で咲きなさい」

Please bloom where God has placed you.
神様があなたを植えて下さった場所で咲きなさい。
Rather than give up, make the best of your life and bloom like a flower.
To bloom is to live happily.
諦めるのではなく、むしろ人生のベストを尽くしなさい、そして花のように咲きなさい。咲くということは幸せに生きることです。
Let your joy make others happy.
Your smile is contagious.
あなたの喜びが他の人々を幸せにするのです。
When you are happy and show it by your smile
Others will know it and are happy too.
あなたが幸せで、その幸せを笑顔で示せば、他の人々は、あなたの幸せを知って、彼らもまた幸せになるのです。
God has planted you in a special place.
神様はあなたを特別な場所にお植えになったのです。
If you know it share it with others, your personality will shine.
あなたが他の人々とそのことを分かち合えばあなたの人柄が輝くでしょう。
It is that “shine” which we call “Bloom”
私たちが「咲く」と言っているのは、この「輝き」のことなのです。
When I bloom in the place
where God has placed me
神様が私を植えて下さった場所で私が咲く時、
My life becomes a beautiful flower
in the garden of life.
私の命は命の庭の美しい花になるのです。
Bloom where God has planted you
神様が植えて下さった場所で咲きなさい。

(Reinhold Niebuhr)
(ラインホルド・ニーバー 日本語訳:村川久夢)

『置かれた場所で咲きなさい』~Bloom where God has planted you.日本語訳~」より日本語訳を並べるよう筆者修正

この詩に出会った当時の渡辺さんはどうなったかというと、環境や周囲の人間に対して不平不満に溢れていたのが、置かれた場に不平不満を持って不幸になっていては環境の奴隷でしかないと考え直し、自分の行動を変化させることで、結果的に周りの人も渡辺さんを受け入れてくれるようになったそうです(概要は「こちらのブログ」が詳しいです)。

置かれた場所とは「コントロールできないこと」

個人的にはけっこう抽象度の高い話だと思うので、自分なりに噛み砕いて解釈してみると、この渡辺さんの変化というのは、要するに「コントロールできることに注目した」ということかなぁと思います。渡辺さんはもともと周囲の人に対して「挨拶してくれない」とか「苦労をわかってくれない」「ねぎらってくれない」などの「くれない族」になってしまっていたところを、自分から挨拶したり、お礼を言ったり褒めたりするように変えて初めて状況を好転させました。もともと注目してしまっていたコントロールができない他人の言動ではなく、コントロールできる自分の言動に注目したわけですね。

このような「他人の振る舞い」といった「コントロールできないこと」がすなわち「置かれた場所」であり、自分の目的を達成させるためには、コントロールできないことに目を向けるのではなく、コントロールできることに目を向けて花を咲かせなさい(目的を達成なさい)、というのが「置かれた場所で咲きなさい」というメッセージの本質なのかなと思いました。

置かれた場所には「外部環境」と「内部環境」がある

そんな「置かれた場所」ですが、以下のように大きく2つに分けられると思います。

  • 外部環境

    • 他人の振る舞い、所属組織の文化

    • 地理的な特徴(気候など)

    • 物理的な設備環境(ライフラインなど)

    • その時点での政治・経済・技術・社会的情勢など

  • 内部環境

    • 生まれ持った性格

    • 身体的特徴(性別、背の高低、筋力の強弱、外見など)

「置かれた場所」と聞くとまずイメージしやすいのは「外部環境」だと思います。渡辺さんの例もこちらに該当するかと思います。さらにもう一つ、元の英文の詩を解釈する際には、神が今の肉体にあなたという自我を宿した(植えた)、と捉えることもできると思います。その肉体には、「三つ子の魂百まで」と言われるようにずっと変わらない性格的特徴があったり、性別の違いだったり、背の高さとか足の速さや健康状態などの身体的特徴の違いがあったりします。現代の技術において一定のレベルなら変化を加えることもできますが、とはいえ自由自在とまではいきませんし相応のコストがかかります。なので実は自分の肉体や根源の精神性という内部環境自体も、コントロールできない所与の条件として考えていいと思います。

このように「置かれた場所」とは自分の内外に様々あるので、何がコントロールできて何ができないものなのかを知り、コントロールできることにだけ注目して咲こうとする(目的を達成する)ことが肝要だと、この詩は言ってるんじゃないかと思いました。

「置かれた場所で咲きなさい」という言葉を何も考えずに解釈すると、どんな劣悪な環境でも文句を言わずに頑張れというような、ブラックな環境を容認するような誤解が生まれがちです。そうではなく、理不尽などのブラックな環境はコントロール可能なので(退職ができる)、達成しようとする目的(幸せに生きる、などその人次第のもの)に悪影響なのであればコントロールする必要があります。

こういう誤解が生まれやすいので、「置かれた場所で咲く」というより「コントロールできることに注目して咲く」というように言い換えて覚えたほうが、情緒風情は無くなりますが人生の指針にはしやすいように思いました。

認知的不協和:コントロールすべきでないものをコントロールしがち

理屈だけ見れば「そりゃコントロールできることだけに注目するだろ普通に考えて」と思うかもしれませんが、渡辺さんの本がベストセラーになっていることを思うと、その理屈はさほど一般的じゃないんだと思います。そうなる理由の一つとして、実は人は「コントロールできないもの、すべきでないものをコントロールしがち」ということがある気がしています。いわゆる認知的不協和を解消する際によく見られるやつです。認知的不協和の例としてイソップ童話の「酸っぱい葡萄」が有名ですが、主人公の狐が、

  • 高い木になっているブドウが食べたい

  • しかしブドウを取れなかった

という矛盾した現状に対し、「きっとあのブドウは酸っぱくておいしくないに違いない」と思い込み、「ブドウが食べたい」を「あんなブドウは食べたくない」というように認知を修正することで、取れなかった事実を正当化する(認知的不協和を解消する)という話があります。

他にもこちらのサイトに、「夢の職業」と「楽しくない」の不協和の例があります。

  1. 夢だった職業に就いている

  2. 仕事が楽しいと思えない

という状況があった時に、人は「ホントの夢じゃなかった」「実はしょうもない仕事だった」と1つ目の認知を修正して諦めてしまったりします。これは認知をコントロールしているという点でコントロールできることに注目してはいますが、しかしコントロールする際には、あくまで目的を忘れてはいけないと思います。上記の例だと、おいしい葡萄を味わうとか、夢の職業で楽しく働くなどの本来の目的をずらすように認知をコントロールしてしまうと、目的を達成できなくなってしまいます。シスター渡辺さんの例にしても、仕事をやめてしまえば不平不満から解放されたでしょうが、そうすると修道会としての役割を果たすという大事な目的が達成されなくなります。ほんとにその仕事に夢が無くなっているならいいんですが、夢であり続けるなら目的を達成させるような考え方をしたほうがいいはずです。

もちろん、だからといって2つ目の認知を「仕事は楽しいはずなんだ、楽しいと思わないといけないんだ」と無理やり修正しようとしても、それはコントロールできない自分の本当の感情なわけで、そんなことをすると病んでしまいます。

あくまで目的はずらさず、目的を達成できるようにコントロールできることに注目する。それが肝心だと思うわけです。

藤嶌さんは「目的をずらさず、コントロールできることに注目」

ここまで長々と述べてきましたが、藤嶌さんの例に戻ると、

  1. 目標に向かって100%出し切りたい

  2. 100%出し切る前に放棄してしまう

という認知があるかと思います。ここでよくあるのが、「100%出し切ることが全てじゃないよね」とか「毎回100%出してても大変だし、80%くらいが丁度いいはず」のように、1の認知を修正、つまり目的をずらして正当化しようとしたり、「100%出せない性格を変えなければならない」と、自分が本来持っていてコントロールしづらい性格的特性を無理やり変えようとしたりしてしまい、当然うまくいかず病んでしまったりするわけです。

しかし藤嶌さんは、

  • 「きっと私は頑張る事が義務になるとしんどくなっちゃう人」と自分の性格的特性(内部環境)を把握し、

  • 「自分のことを細かく見てくれるファンがたくさんいる」という外部環境を把握し、

  • 「そんなファンの事を考えると、私の出来る最大限のパワーでたくさんの人を笑顔にしようと前向きな気持ちになれる」という自分の性格的特性(内部環境)も把握した上で、

  • 「目標に向かって100%出し切りたい」という目的はずらさず、

  • 「ファンのために頑張りたいから努力する」というように2つ目の認知を修正

してるわけです。性格的特性自体をコントロールしようとせず、もちろん目的もずらすこともなく、コントロール可能な「物事を捉える論理」だけ変えています。「自分が置かれた場所」である「内部・外部環境」を十分に把握し、その環境上の特徴をうまく活かして目的を達成しようとしてるんですね。

いや、かほりんハンパないって。17歳なのにめちゃくちゃレベル高い思考してるもん。そんなん出来ひんやん普通。

たいていの人なら目的をずらして正当化するか自分を責めて落ち込むかのどっちかに陥りそうなものを、ほんとに柔軟な考え方ができる人だなぁと思います。意外とこれ、自分も含めてその辺の大人でもちゃんとできる人はそんなにいないと思います。だからこそ、シスター渡辺さんの本がミリオンセラーになるわけで。
論語塾に通ってた成果なんでしょうか?元々持ってる素養なのかなぁ。いずれにしてもすごいです。藤嶌さんと自分を同年齢期で比較したとしたら、知的水準で圧倒的大差をつけて敗北しますね。自分が17の頃なんてスマブラしかしてなかったし、将来藤嶌さんが自分の年齢になった時にもきっと、世界を見る視座が自分とは全然違うと思います。

余談:「あなたの100% = 相手の100%」とは限らない

ところで余談ですが、藤嶌さんは、「100%出し切る前に放棄しちゃう事が多い」と述べていますよね。しかしこれだけだと「藤嶌さんの中での出し切れる割合」は分かりますが、その絶対量については分かりません。

たとえばですけど、あなたの学校のクラスメイトが「昨日全然勉強できなかったー」とボヤいていたとして、「どれくらい勉強したの?」と質問して返ってきた答えが

「8時間」

だったとすると、あなたはどう思うでしょうか?

もしあなたが、1日に1時間も勉強すればかなり頑張ったと感じる人なら、「いや、めちゃくちゃ勉強してるじゃん!」と感じるでしょう。
しかし、1日12時間の勉強が相場の学校に通っている生徒なら「たしかに少ないね」と思うのではないでしょうか。

パーセンテージでいえば、8時間という勉強時間は

  • 1日1時間が相場のとき:8時間÷1時間*100 = 800%

  • 1日12時間が相場のとき:8時間÷12時間*100 = 67%

になります。800%と67%じゃ、そりゃ感じ方が全然違いますよね。絶対値は同じ「8時間」ですが、その絶対値を解釈する基準(勉強時間の相場)がぜんぜん違うので、解釈自体も全然変わるわけです。

もしかすると、あなたにとっての頑張り100%は、絶対値で見ると藤嶌さんの30%に満たないかもしれません。ホントのところはどうなのかは分かりませんが、少なくとも量や基準が無い中で割合だけみても解釈が揃わないので、量だけとか割合だけ見るのではなく、どちらも意識した上で解釈したいよなぁと改めて思いました(小学生並みの感想)。

まとめ

藤嶌果歩さんは、まさに「置かれた場所で咲く」ように、自分が置かれた内部・外部環境を理解し、目的はずらさず、コントロールできることにだけ注目して目的を達成しようとしているんじゃないかということを述べました。大人でも難しい思考に弱冠17歳にして到達していることには、もはや畏敬の念すら抱きます。

自分からするとメンバーの年齢なんて随分下になってしまいましたが、それでも学ぶことはあるなと感じます。日向坂の未来にはまだまだ期待できるなぁなんて思いながら、新参者の配信を楽しみに待ちたいと思います。配信日程が11月18日も追加され、ということは最終日とセトリや演出なども変わったりするのかな?なんて予想というか期待もしつつ、最高のライブに胸を躍らせたいと思います!

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