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1年越しの思いで訪れた飯舘村 その場所で見たものはあまりにも受け入れ難い現実だった

阿武隈山系北部の豊かな自然に恵まれた美しい村『飯舘村』

2019年2月14日、矢嶋一樹さん、近藤祥雄さんと共にこの地を訪れました。

その際、今から8年前に起きた東日本大震災発生当初から

現場へ足を運び続けている

烏賀陽弘道さんの現地取材へ同行させていただきました。

今回、なぜそのような行動を取ったのか

そして現場では何を感じたのか

その様子を御報告します。


【今回、なぜ飯舘村を訪れたのか】

 私が考えていた飯舘村・冬訪問は、実は1年前からひそかに計画していたことでした。そのきっかけになったのは烏賀陽弘道さんがnoteにて公開していた以下の記事を拝見したときです。

烏賀陽(うがや)弘道/Hiro Ugaya|note

2018年3月29日公開

放射能が襲った悲劇の山村で見つけた

雪と氷が作り出す自然の造形美

これも除染で破壊されてしまうのか


 昨年の烏賀陽弘道さんの現地取材は、私が初めて開催した「烏賀陽大学 in 高崎!」の翌日から行われておりました。烏賀陽さんは、前日まで群馬県高崎市にて講演を行い、参加者と同じ時間を共有していたはずなのに翌日には福島へ取材に向かっている。その事実だけでも驚くことなのに公開された記事には息を呑むような美しい光景が広がっている。それらを見ていると、この場所が基準値を超えるような放射線量が降り注いだ場所とは思えないほどの自然の美しさを感じ、その写真1枚1枚にとても引き込まれていました。

 そのように当時のnoteから感じたため、1年後の冬、再び季節がめぐってきたら1番寒い真冬に現地を訪れて自分の目で確かめてこよう。そう考えていたことから、2019年2月の福島訪問へとつながりました。


【どのようにして烏賀陽弘道さんへアクションを起こしたのか】

 あれほどの美しさがあふれる写真を残しているならば、きっと2019年の冬も飯舘村の記録を残すために取材に出向くはず。私はそのように考えたことから直接話を聞くチャンスを得るために、今年の2月上旬に烏賀陽さんへ飯舘村の取材訪問に同行したいことを伝えました。このアクションのように、もし取材同行に興味を持つ方がいたら、参考にしていただきたい事柄があるのでシェアいたします。


【フクシマ取材を同行するにあたって】

◇ 飯舘村は決して観光地ではない。ましてや、取材の合間に烏賀陽さんの時間をいただいて同行するのに旅行気分で行くのであれば、個人旅行としてそれぞれが自由に訪れるほうが良い。

◇ 公開している飯舘村の冬景色は烏賀陽さんが自腹で8年間通い続けたからこそ見つけられた場所であり、それはガイドブックには載っていない。そのため知り合いだから簡単に連れていってもらえる、という甘い考えではいけない。

◇ 「取材に同行する」ということは現地にいる時間を一瞬でも惜しいと感じる烏賀陽さんの時間をいただくので謝礼の提示が必要。そもそも烏賀陽さんの仕事は可能な限り現地取材をすることであって旅行の付き添いは仕事ではない。そのため仕事としての時間に同行するのであれば、まずは謝礼の有無について明確にすること。

※ 謝礼に関して、以下の内容も考慮する必要がある

 金額はいくらなのか

 それは何人で分割するのか

 公募は行うのか

 他の参加希望者に声はかけたのか 


【実際に訪れた現地では何を見たのか】

私にとってフクシマ訪問の一番の目的は、飯舘村の冬景色・氷の芸術を拝見することでした。それは自然が作りあげたものであり、その場所がまるで一種の癒し空間のように感じ、私はここでずっとその様子を眺めていたい・・そう思いながら、ただひたすら氷の景色を見つめていました。

水の流れと共に凍った木の葉


キラキラと太陽の光に反射する氷の滝


氷の芸術前にて 毎時0.38µ㏜を示す


表面は凍っているが

その下ではサラサラと川の水が流れている

自然の美しさをこれほどじっくり眺めたのは一体何年ぶりだろう。そんな感情を私は抱きながら、この美しい光景をじっと見つめていました。そしてその様子を実際に拝見したからこそ、また来年も見てみたい。そのように思いますが、この場所について烏賀陽弘道さんが今後の見解を述べているのでご紹介致します。


2019年3月5日公開

フクシマからの報告 2019年冬

全村避難解除から2年

自然のつくった氷の芸術は

除染による破壊から無事だった

『私がずっと案じているのは、この山肌にも除染の手が入ることだ。これまでの除染済みの山肌を見ると、表面が削られ、凸凹も削り取られてしまう。水は流れを変える。除染工事が始まれば、この自然の芸術も消えてしまうのだろう』(烏賀陽弘道さんnoteより引用)


 私は、実際に訪れてその景色を自分の目で確かめてみる。それがとても大切なことだと感じているつもりでしたが、実はそれ以上に「記録に残す」ことがいかに重要なことなのか。その部分について体感を伴った出来事が今回の福島訪問では起こりました。それが飯樋小学校と飯樋幼稚園を訪れたときです。

この小学校は平成14年度(2002年4月)~平成15年度(2004年3月)に福島県の補助事業「木とふれあう学舎づくり推進事業」として2ヶ年事業の整備が行われていました。(文部科学省ホームページより引用)

しかし東日本大震災発生後の2011年4月22日、政府がこの飯舘村を含む地域を計画的避難区域へ指定したことで全村避難の対象となりました。(この区域には福島県の葛尾村・浪江町・飯舘村、および川俣町と南相馬市の一部を含む)そのためここで暮らしていた人々の生活は一変。小学校や幼稚園から子どもたちの姿が消え、この場所にあったはずの日常生活が奪われていきました。

昨日まで使われていたかのように佇む一輪車やボール


まるで子供のような表情を浮かべる飾り木


そして、この小学校のすぐ隣には飯樋幼稚園が併設されていました。しかし私たちが訪れたときはその校舎を解体しているところでした。

グラウンドの中央に設置されていたすべり台付き遊具


学び舎があった場所には重機が入り、無残にも取り壊されていく


 福島第一原発事故発生前、この場所ではきっと毎日のように子供たちがグラウンドを駆け回り、時には運動会やお祭りなどが開催されていたはずです。しかし、今ではその風景をまるでなかったかのように根こそぎ奪っていく現実が目の前で起きている。もし私が解体後に訪れていたら、この場所に校舎があったことすら気付かなかったかもしれない。


今、私の目の前には取り壊されていく建物がある

それは業者にとっては放射性廃棄物かもしれない

でも、その土地で暮らしていた人々にとっては単なる廃棄物ではない

積み上げられたフレコンバックはただの汚物で

それがなくなり更地になれば「きれいになった」と言えるのだろうか

このような状況を目の前にして

たとえ目を背けたくなるような現実が広がっていたとしても

記録に残さなければ、この事実さえも

何事もなかったかのように忽然と消えてしまう

そのようになってしまったら

この場所で過ごしていた子どもたちの思いはどうなってしまうのだろう

記録に残す作業は必ずしも良いものばかりではなく

むしろ目を背けたくなるような光景が多い

しかし、現実に起きているその姿を目の前で見てしまったら

私は何事もなかったかのように見過ごすことが出来ない

現場を直視すればするほど 思考は掻き乱され

こんな現実見たくない 受け入れたくない

そのような思いと私はすごく葛藤する

しかし、これは海外で起きていることではない

私たちが暮らす日本で起きた現実

しかもそれは、現在進行形で今も続いているということ

だからこそ、これからもこの事実と向き合っていかなければいけない



最後に

突然の提案にも関わらず

貴重な時間を割いて取材同行を受け入れて下さった

烏賀陽弘道さんへ心から御礼を申し上げます。

そして、福島県・飯舘村へ共に訪れた

矢嶋一樹さん、近藤祥雄さんへ

感謝の気持ちを込めて

お二人の公開記事をご紹介いたします。


『矢嶋一樹さん』

避難指示解除から2年|冬の飯館村を訪問|未だに爪痕が深く残っていた


『近藤祥雄さん』

行政施設の改築工事だけが進み、住民の帰還が一向に進まない、飯舘村の復興進行が生むギャップ


(2019年3月24日記す)

noteをご覧いただきありがとうございます。いただいたサポートは福島取材のための費用や尊敬する著者の応援カンパに充てさせていただきます。