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書くこととわたし

わたしの職場はことのほか書く作業が多い。常識の範疇をこえた納期短縮依頼に対し、できるわけねえだろばーかばーかぱーかといった気持ちを表明することなく努めてやんわりと「誠に申し訳ないのですが、こちらが最短出荷日でございます。何卒ご容赦のほど」的な詫び文を書き添えたり、5枚複写の注文書に渾身の力を込めて書き入れたりしている。ペーパーレス時代とやらは、どうやらわたしの職場には到来していないようだ。

得意先からの各種依頼書のFAXについては弊社にはどうしようもないにしても「手書きの5枚複写をなくしたい」という流れがないわけではないらしい。「ねえ、なみさんもそう思うでしょ?」と上司に言われたときには「そうですね。いちいち手で書くのってホントめんどくさいですよね!いやになっちゃう!」などと言って同意してはいるが、それはあくまで部下として空気を読んだ上での忖度である。実はわたしは昔から書くことがまったく苦にならない。苦になるどころかむしろ楽しいくらいだ。いい感じに書けたときなどほくそ笑んでいるに違いない。納期短縮不可に関する詫び文章はともかく、5枚複写の注文書なら何枚でも何十枚でもただひたすらえんえんと書いていたい。

月一の会議中には狂ったようにメモを取る。一言一句漏らさない。傍目には会議に対し、ひいては仕事に対して真剣に取り組んでいる風ではある。だが実際は単なる暇つぶしに他ならない。もっと言えばおおっぴらに遊んでいるだけだ。書いている内容に何の興味もないので、当然それがなんらかの改善点だったとしても今後に活かそうなどと思ったこともない。ええ、まったく少しもこれっぽっちもないですねえ。それはまあ正社員の方々が尽力すればいいと思いますよ。こちとら非正規なんで!対価的に何も評価されないのであれば、はなからそんな無駄な努力するわけがないというのが正直なところ。

失礼、話が横道に逸れてしまった。

昔から紙が自分の書いたもので埋まるのを見ているのが好きだった。小学 3〜4年生の頃、宿題を1回忘れるごとに漢字を100個書かなければならないという極めてありがちな罰則があった。わたしはその月2回やらかしたので200個書かなければならないはずだったが、S先生は300個と言ったのだった。ん?と思った。S先生は中年の男性で、弱いものいじめをする生徒は断じて許さない熱血漢だが基本的にはやさしく話がわかるひとだ。「先生、わたし2回しか忘れてないから200個だよ」と言えば「え、2回?おーそうだったそうだった。先生、グラフ見間違えたなすまんすまん」と言ってくれただろう。しかしわたしは300個ねオッケー☆とローラのように思ったのである。100個も余計に書けというのか理不尽!と憤るのではなく、100個くらい余計に書いてもいいやと思った。100個単位とは言え漢字を書くことなど、そもそもわたしにとっては罰則になっていなかったのだった。きっちり300個書いてノートを持って行ったら「あれ?200個じゃなかったか?300?俺がそう言ったのか。いやあ悪かったなあ……」とS先生はしょんぼりしていた。そんなS先生が大好きだった。

罰則として漢字100個×宿題を忘れた回数はわたしのようなヘンタイを除けば本来なら成立する。小学3〜4年生だもの、漢字なんか書いてられっか遊んでいたい!と思うほうが、わたしの書いた漢字でノートが埋まっていくぜぇヒャッハー!とか言っているより断然健全だと思う(いや、わたしもさすがにそんな北斗の拳の雑魚キャラみたいなことは言っていないが)。書くことが好きな人間もいれば嫌いな人間もいるだろう。そらそうよ。ただわたしの言う「好き」は何というか理解しがたいというか常軌を逸しているレベルなのかもしれないと思う今日この頃なのである。

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