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長谷川博己のファミリーヒストリーを観て、出雲民族への想いをはせる。

私は出雲と聞くとなんとも言えない高揚感とロマンが溢れてくる。

それは、出雲王国が高天原から降り立った天孫族より前から存在した古代帝国であり、出雲民族がツングース人であるという歴史好きにはたまらない話だからである。

先日NHKのファミリーヒストリーにて俳優の長谷川博己さんの回を視聴した。

彼は出雲にある玉造温泉の老舗旅館の生まれであった。

そして、そのご先祖は1300年前に奈良時代の猟師だった長谷川俊方という人でまでさかのぼる。

その長谷川俊方というご先祖が金色の狼を見つけ山の中のほこらに入った。ところが狼が地蔵菩薩に姿を変え、殺生の罪を悔い、発心を起こし、お坊さんになり、金蓮聖人となって山で修行し、大山寺を開山したという凄い話であった。

まず私が思ったことは「やっぱり猟師か、、。」と、ツングース人という騎馬民族とを重ねあわせ番組を見入ってしまった。

その後も玉造温泉は長谷川家が守り続け、江戸時代には湯之助を命じられ玉造温泉は藩主・堀尾家の静養地として発展していく。

明治に入り長谷川家の一族は 次々と分家しそれぞれ旅館経営に乗り出していいく様子が描かれていく。

そこで長谷川博己さんの4代前の高祖父の長谷川百三郎という方が、「保性館」と名付けた玉造で一番大きな旅館を建てる明治期に至る。

そこで百三郎の写真が出きたとき、「おやっ?」と思った。
それは百三郎の風貌が一般的な日本人の感じではなく、どことなくモンゴルや満州人のような面影を私は感じたからだ。

長谷川博己さん自体もかなりの男前であるが、加山雄三のような色黒で毛深く顔のパーツが全体的に丸い感じの南方系ではない。
どちらかというと目が少し釣り上がって頬骨がしっかりしていて骨ぼねしい印象を感じさせる色白の北方系の民族のような気がする。

私が出雲にロマンを感じずにいられなくなった根拠となる、西村真次博士の著「大和時代」からのつぎの一文を紹介する。

「今の黒龍江、ウスリーあたりに占拠していたツングース族の中、最も勇敢にして進取の気性に富んでいたものは、夏季の風静かなる日を選んで、船を間宮海峡或いは日本海に泛かべて、勇しい南下の航海を試みた。
樺太は最初に見舞った土地であろう。彼等の船はさらに蝦夷島を発見して、高島付近に門番(オトリ:otoli---小樽)を置き、一部はそこに上陸し、他は尚も南下し海獺[ラッコ]多き土地を見出し、そこに上陸してそこを海獺(モト:moto--陸奥)と命名し、海岸沿いに航海を続けて、入海多く河川多き秋田地方に出たものは、そこに天幕を張って仮住し、鮭の大漁に食料の豊富なことを喜んだであろう。そこを彼等は鮭(ダワ:dawa--出羽)と呼び慣らしたので、ついに長く其地の地名となった。陸奥・出羽は、しかしながら、ツングース族の最後の住地ではなかった。
彼等は日本海に沿って南下し、或いは直接に母国から日本海を横切って、佐渡を経て、越後の海岸に来り、そこに上陸し、あるいは更に南西方に航行して出雲付近まで進んでいったであろう。こうした移動を、私はツングース族の第一波移動と呼んでいる。これは紀元前1800年から紀元前1000年位の間に行われたと思われる。」 
(仮名遣いは現代風にした。西村博士の「大和時代」)

紀元前11世紀、アナトリアでヒッタイト王国が滅び、鉄の技術がオリエントに広がった頃、ツングース族は出雲に至り、出雲王朝を築いたのかもしれない。

ちなみに、司馬遼太郎先生は大阪外国語大学の蒙古学科を出ておられる。蒙古語は日本人ならば、私たちのような東京の人間が鹿児島弁や津軽弁を習得するほどの努力で学べるそうだ。

言葉の構造は、朝鮮語と同じように日本語とほとんど変わりなく、単語さえ覚えればほぼ用を足す言語である。
蒙古語もツングース語も同じウラル・アルタイ語族に属している。
清朝皇帝たちの言語も、ジンギスカンに協力して元帝国をたてた満洲の騎馬民族もまたツングース人種であり、その言語もウラル・アルタイ語系の言葉であった。

ツングース人種である出雲民族は鉄器文明を持ってきていて、出雲に巨大帝国を築きあげた。

現在、満州の興安山脈の山中にあって狩猟生活を営むオロチョンという少数民族もツングース人種の一派である。

八岐大蛇伝説(ヤマタノオロチ)もオロチョン民族であるという説もある。
語呂からの発想であるが、話としては面白い。
中国山脈は砂鉄が多い。
オロチョン民族の鉱業家が簸川(ひのかわ)の上流で砂鉄を採取して炉で溶かしていた。タタラという古代の製鉄所である。

 当然のことながら、川下の田畑には砂鉄を採取するときに出るドロ水が流れ込み、農民を困らせた。農民は、足名椎(あしなづち)手名椎(てなづち)夫婦に象徴され、オロチ退治の神楽に登場する人物である。

 洒をつくって、オロチに飲ませ、酔っ払ったところへ出雲の王、須佐之男尊(スサノオノミコト)が登場してオロチと格闘して首を取るクライマックスのシーンとなる。つまり、鉱山業者と農民の間の利害問題を裁き、農民側を勝訴させたことを物語っている、という。

いずれにしろ、ツングース人種である出雲民族は鉄器文明を背景にして出雲に巨大な帝国をたて、豊葦原中国(トヨアシハラノナカツクニ)を制覇した。
その何代目かの帝王が大国主命(オオクニヌシノミコト)である。そこへ、高天原から天孫民族の使者がおしかけてきて、国を譲れという。

天孫族とは神武天皇を初代とする大和王権である。
天孫族は何者であるかは諸説あり、ここでは言及しないでおく。
とにかく天孫族は出雲帝国を凌ぐ巨大な兵団を持っていたのであろう。

最後の談判は出雲の稲佐浜で行われた。
天孫民族の使者である武甕槌命(タケミカヅチノミコト)は浜にホコを突き立て、「否(イナ)、然(サ)!」とせまった。

司馬遼太郎先生はこの場面について、シンガポールにおける山下・パーシバルの会談を連想している。
「イエスかノーか!」と降伏を迫ったそれである。

その結果、出雲王朝は天孫民族に国譲りをし、出雲王は永久に天孫民族の政治にはタッチしない協定を結んだ。
そして、出雲王族は身柄を大和に移され三輪山のそばに住んだ。
三輪氏の祖がそれである。

天孫民族の進駐軍は大国主命がいることでは占領統治はうまくいかないとみて、現人神である大国主命を殺した。
そして、大国主命は出雲大社において鎮められたのである。

太平洋戦争後のアメリカは天孫民族の帝王に対して温情的であった。
しかし神代の天孫民族は、前代の支配王朝に対して苛烈さをもってのぞんだ。
そして、高天原政権は天孫族の司令長官である天穂日命(アメノホヒノミコト)を出雲大社の宮司になることを命じた。
そのことによって出雲民族を慰撫し、祭神大国主命の代行者という立場で、出雲における占領政治を正当化したのである。

今の出雲大社へ行く観光客でどれぐらいの人が、この出雲王朝の悲劇を知っているのであろうか?

出雲の話はこのあたりで切り上げ、ファミリーヒストリーの話に戻るとする。

長谷川博己さんの曽祖父長谷川國太郎には跡取りの息子がいなかった。
そこで國太郎さんは布志名焼の窯元で働いていた中島忠夫さんを婿養子にむかえる。

ここで番組は中島家の歴史にも掘り下げていく。
江戸時代中島家は松江藩の下級武士であったとのこと。
その出雲二十四万石の大名であった堀尾吉晴は豊臣秀吉の家臣であり、明智光秀との天王山の戦い(山崎合戦)にも参戦しており大きな武功を立てた人物である。

長谷川博己さんはご存知のとうりNHK大河ドラマ「麒麟がくる」で主人公の明智光秀を演じており、その縁にも驚嘆されていた。

余談であるが、堀尾吉晴は少年時代は茂助と名乗り猟師であった。
信長にひろわれ、少年ながら沈毅な面魂があり、藤吉郎と名乗っていた頃の秀吉が信長にねだって、自分の家来分にした。
堀尾吉晴が歴史で名をあげた戦いが美濃の稲葉山城の攻略戦である。
長良川の崖から稲葉山によじ登る決死隊に選ばれたのが、猟師あがりの堀尾茂助であった。

この堀尾茂助は山育ちらしく極度に無口な男だったという。
人と同座しても雑談ということもせず、わが子に対してさえ自分の経歴や武功を語ったことがなかった。
のちに秀吉が豊臣家の家制をを決めたとき、秀吉はこの茂助を中老に選んでいる。
大老は政治職で奉行は行政職である。その中間に位置する中老は判定役であった。
茂助は無口ながら物事の判定をあやまらぬということで、この職につけたという。

再度、ファミリーヒストリーの話に戻る。

この婿養子にきた忠夫さんが旅館経営に力を注いだ。
次第に趣向を凝らした立派な別館を増築したいと考えるようになり、出雲大社のような気品ある建物を建てたいと願ったという。

材料となる銘木を探すため自ら各地を回り、5年もの歳月をかけ昭和6年に完成したのが「幽泉閣」である。

現在も当時のままの建物が残されていて、平成30年に国の有形文化財に登録された。

そして、昭和22年ついに長谷川忠夫さんの念願がかなった。
昭和天皇が全国を行幸するなかで、この「幽泉閣」にお泊まりになったのだ。

敗戦後、アメリカ大統領が来日して泊まった旅館があったかどうかは知らないが、日本人の旅館経営者は大変な名誉と歓喜し、豪勢なお迎えをしたであろう。
それは婿養子で入った長谷川忠夫さんも出雲民族の悲哀の歴史など遠い神話の世界の話であり、素直に天皇陛下の来賓を喜んだことであろう。
しかし、誇り高き騎馬民族の血を引く出雲民族の末裔たちはどうであろうか。
進駐軍である天孫族の帝王をどのような気持ちで出雲の地に迎え入れたのか私にはわからない。

長々と書いてしまったが、長谷川博己さんのファミリーヒストリーを観て、私の中の出雲熱が高まってしまった結果がこのnoteの記事である。

こんなにも熱く語っているが、出雲へは行ったことがない。
コロナが収束したあかつきには、出雲浪漫紀行を楽しみたいものだ。

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