恋人

「恋人」という言葉が好きだ。「彼」や「彼女」よりも。「恋人」は可愛い言葉だと思う。ほどよく抽象化されていて、それには「彼」には漂う実感がない。「恋人」は理想で、「彼」は生活なのだ。

彼と暮らすならきっと、私は朝起きて彼が寝ぼけているうちにパンでも焼いて珈琲でも淹れる。それで彼が起きてくるまではのんびりとネットでも眺めて、起きてきたら言うのだ。おはよう、珈琲入ってるよ。ブラックが好きな彼はマグカップにそのままの珈琲を注ぎ、牛乳を入れたい私はカフェオレボウルにたっぷりの牛乳と、それと同じくらいの珈琲を注いで、日焼けした肌みたいな液体にする。

きょうは日曜日で二人とも仕事は休みだ。どこかに出かけてもいいけど、のんびりしたくもある。

「どうする? どこか出かける?」

「んー、そうだねえ。行きたがってた展覧会、まだやってるんだっけ?」

「確か来月くらいまでやってたはずだよ」

「じゃあ、きょう慌てていかなくてもいいか。映画でも見る?」

そんなふうに朝ご飯を食べて、でも私たちの腰は落ち着いたまま動かない。しばらくしてようやく動き出したと思ったら、食器も洗わないで二人してソファに腰掛けるのだ。彼はスマートフォンの画面を眺め、私は彼の腕の気になる毛を引っ張ったりしたあと、読みかけの本を手にとってぱたりと彼の膝に寝転ぶ。そんなことをしているうちに気づけばお昼になっている。

「お昼ご飯どうする?」

「どこかに食べに行こうか? ついでにDVDでも借りてこよう」

気合の入ってない化粧をして、簡単に髪をまとめた私を、着古したシャツの彼が待つ。そのころにはもう正午過ぎになっていて、ようやく二人は外に出る。近くのファミリーレストランに行こうとする彼に、私はおずおずともっと可愛らしいところに行きたいだなんてわがままを言う。じゃあちょうどいいお店を探してみようかと近所を一緒に歩くのだけれど、そうそう都合よく素敵なお店は見つからない。だからきっと私たちは、駅前のドトールか何かで、世間話をするおじいさんやおばあさんを横目にパンをかじったりするのだ。そして満腹になって、ツタヤでDVDを借りる。そんなにたくさん借りても見切れないから、それぞれの趣味にあったものを一本ずつ。彼はアクション要素のある人気のファンタジー映画を選び、私は少し古い、衣装の可愛げなフランス映画を選ぶ。まずはどっちを見ようかなんて言いながらスーパーで食材を買い足して帰宅する。

「きょうのうちに両方とも見てしまいたいね」

「どっちも短めだし見れるんじゃないかな」

そんなことを話すけれど、一本目を見終わるとすぐに私は疲れてしまい、もう一本は今度にしようと言ってベッドに横になるのだ。彼は私を心配げに覗き込むが、すぐに悪戯っぽい笑顔を浮かべながら覆いかぶさってくる。私は「疲れてるからあとにして」と言いながら彼の頭を胸に抱きしめ、短い髪を指先で撫でる。そんなふうにしてこれといったことをしないままに、日曜は終わる。

恋人と暮らすなら、そこはきっと汚れのない豊かな絨毯のある部屋だ。よく磨かれた暗い色の木の窓からは色味のない光が差し、台に置かれた植物たちが光を浴びて白っぽく輝いている。恋人は起きたままの薄い生地の服を着て、慈しむように植物に水をあげている。私は「おはよう」と言って、手元の水差しからコップに水を注ぎ、その甘さで口を潤す。

「庭でブーゲンビリアが咲きかけてるよ。小鳥たちも喜んでた」

恋人は報告する。私は霧の出るこの地域でブーゲンビリアは生きていけるのだろうかと心配しながら、それでも恋人の細い指先が撫でれば、きっとどんなに元気のない花も水気を帯びて生き返るに違いないと思う。

「野菜のスープを作るわ。人参やキャベツの」

私は言い、保存用の箱からいくつかの野菜を取り出す。包丁は見事に私の手に収まり、野菜たちは宝石のように美しく切り整えられ、薄く色づいた透明なスープのなかで温められていく。と、植物の手入れを終えた恋人が背後に立っているのに気づく。恋人は私の頭に柔らかく触れる。

「きみの頭はアサギリソウみたいだ」

微笑みながら恋人の手に頭を任せ、私は目を閉じてその優しい指先を味わう。せせらぎのような手。そうだ、きょうは小川を眺めに行こう。

「スープを食べたら小川に行きましょう。川の音を聞きながら、本を読みたいの」

「僕もちょうど小川に行きたいと思ってたんだ」

「ほんとう?」

「うん。小川のそばに座ったきみを見ていたいんだ。きみには小川がよく似合うよ」

小川で私は読みかけの本を開く。それは遠い国の少女の話で、少女は病気にかかっており、綺麗な花がそばにないと体が衰弱してしまう。少女を愛する青年が国中から花を探しては少女に届け、やがて少女の家にはさまざまの色をしたたくさんの花が隙間なく敷き詰められて、手当たり次第に絵の具を出したパレットのようになっていく。だがそれでも少女の病気を食い止めることはできず、少女は死んでしまう。青年は少女の体を抱きしめて泣き続ける。泣き声がこだまし続ける夜がいくつもすぎ、やがてようやく声がやんだとき、近くの住人たちが心配して少女の家を訪れる。そこには少女も青年もおらず、無数の枯れた花に囲まれて、二つの美しい小さな花が支えあうようにして咲いていた。そんな話だった。

私が読書の合間に本から目を話すと、私の膝に頭を乗せた恋人は、低い静かな声で詩の一節を口にする。私は恋人の声が好きだ。それはせせらぎの音を背景にすると、よりいっそう豊かな優しさで私の耳をくすぐる。

夜になると私たちはたっぷりのハーブティを飲み、早めにベッドに入る。恋人の腕に包まれて、私は幸せだと思う。恋人の少し子犬みたいな匂いをかぎながら、私は少し泣く。幸せであること、そしていつかそれが終わることを思って泣くのだ。恋人は私の背中をゆっくりとさすりながら、やがて寝息を立てる。

彼との生活はきっと素晴らしく、私はそれを喜びを持って味わうだろう。でも、恋人が持つ時空を剥奪されたような抽象性を私は愛するし、だから「恋人」という言葉が私は好きだ。

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