絆と道徳

 例えば一人でイベントに出かけた時、その中であるグループが談笑しているとする。私が座る場所を探してウロウロしていると、一瞥するだけでニコリともしない方々が、遠くに友達が見えたら大きなこえで「こっちこっち!」と手招きする。ひとたびその仲間に入ることが出来たら、きっと私も皆に手厚く迎えられることだろうが、アウェーである場合はかなり心細い。

 そこで思い出す言葉が「絆」。
子どもの頃からやたら聞かされ、あちこちに書かれて、意識させられてきたあの言葉。確かにこのグループの皆さんには「絆」がありそうだ。ただその外にいる私は、その「絆」に少し、いやかなり傷つく。

 小学校での道徳教育が問題視されるけれど、自分自身の小学生時代は素敵な読み物がある道徳は嫌いではなかった。人に優しくしよう、とか素晴らしい人の話とかを学べる素敵な時間だとも思っていた。
 でも大人になってみて、海外で暮らしてそれなりに視野が広がった今、道徳の時間を参観していたら驚いた。
 ある物語を読んで、それぞれの登場人物がどんな気持ちだったかを話し合う。班で話し合う中で、みんなと違うことを言う子の意見は多数の意見にまとめられ、班の意見が出来る。発表をしたら、その中でも先生の想定する方向に沿う意見はキレイに板書される。そこから外れたことを言った生徒には、やんわりとダメ出しが入る。
 そして、最終的に「まとめ」と書かれた枠の中にキレイにその日にみんなが感じる「べき」気持ちをまとめられ、それをノートに書き留めて終わり。

 私は仮に道徳の授業から得られるものがあるとするならば「みんないろいろな角度で物事を見ている」ということと「いろいろな意見がある」ことだと思う。でも今の道徳の授業では、その真逆が行われている。とにかく総意であるべきことに「まとめられる」のだ。
  その道徳の授業を通して、子どもたちは授業の50分の中で次第に「先生が取り上げてくれそうな」意見を言い出す。みんなと同じだったら、「一緒だね。よかったよかった。」と一つの輪が生まれる。道徳の授業はその「輪」や「和」を小さな子どもたちに教えているが、それと同時にその輪の外にいる人たちのことまで思いが及ばない人を育てているのではないか。そんなことさえ感じた。 

 私が感じた「アウェー感」を、日本以外の場所から来た人たちもきっと感じているだろう。これからますますグローバル化していく日本の、新しい道徳教育を考えるとすれば、少なくとも「みんな一緒」から「いろんな人がいて、いろんな考え方があるから面白い」という方向に広げるべきだ。
 しかしそれにはかなり専門性や技術が必要なので、これまた学校の先生への負担が大きくなるのは間違いない。

 海外の友人たちは、日本の道徳の授業をとても不思議がり興味を持つ。道徳は人に教えられるものなのか、と不思議そうに尋ねる彼らの言葉に、日本人の私はふと立ち止まる。
 道徳は感じるもので、それは周りの人たちの行動がモデルなのだ。家族を始め子どもたちが触れ合うあらゆる人たちが、子どもたちにとって道徳の先生であると言えるだろう。それぞれの人たちが子どもたちを囲んでそれぞれの道徳心を大切に丁寧に生活出来れば、それが一番だ。

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