「言葉」の先生

 今日のお話は「言葉」について。

 度々報道される政治家の失言や差別発言や偏った考え方による発言は、公の場で話をする機会のある私にとって、かなり衝撃だ。
 なぜなら人の前に出てお話をするということは、本当に大きな事。影響力も大きいので、想像力をたくさん使ってどんな人にどんな風に届くかをしっかり考えてから話すべきなのだ。そして、人を見下す心や自分さえよければ、という気持ちは幾ら演説で上手に国民の心を掴んでも、フッと気を抜いた瞬間に出てしまうものなのである。
 子どもの頃、家で行儀悪くして親に注意され、「大丈夫、大丈夫、外ではせんから!」と言いつつ、結局ちょっと気を抜いた拍子に外でもその習慣が出てしまって赤っ恥、そんな経験を思い出す。いくらよそいきの自分になってみても、その人の中にあるものはちょっとした拍子に出てしまうものだ。

 小学校の外国語活動について学ぶ時に、研修の中で言われた言葉がある。
「小学校で仕事をするならば、小学校で使われる言葉は知っておくべき」
「あの、なんとか学級とやらが…」なんていういい加減な言葉は絶対に絶対に口にするな、ということでした。そこに私の本気度の無さが出てしまうのだ。
 心から納得。プロとして当然だと思った。その専門用語はもとより、内容や歴史、問題点まで知ってこそ、現場の方々に認めてもらえるのだ。

 私は英語ではあるが言葉を教える立場なので、日本語を含む「言葉」をより大切にすることを心がけ続けてきた。
「言葉」はコミュニケーションツールというのは散々言われているが、コミュニケーションと言っても「良い」コミュニケーションのためのものだと思う。人を励まし、お互いに元気を与え合うことが出来る様なコミュニケーションを目指したい。

 私は自分の「言葉」で人の心に寄り添うことが出来たら、「言葉」の教師としては最高だと思っている。それには嘘があってはいけないのだ。
相手を常に尊敬し、その尊敬の気持ちを相手に伝える気持ちで教壇に立つ毎日。そんな中、大きな影響力を持つ人たちの心無い、プロ意識にかける言葉を見て、少しガッカリしながらも、自分の仕事の大切さを思い知らされている。

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