それぞれの持ち味

 私は人の能力をを見る力があり、またそれを言葉にして伝えるのがとても得意だ。

 この持ち味に気付かずにずっと生きてきた私は、人の感情や雰囲気が視覚的に見える自分の特性に、とても苦しめられてきた。いじめられている子が感じる前に、その子の中にある悲しみの感情を受け取ってしまうし、「あの子を仲間はずれにしよう」と企てている人たちが行動に移す前にわかってしまう。先生一人一人の機嫌も手に取るようにわかるし、私自身に向けられた怒りでなくても、負の感情を強く感じてしまう私には苦しい時間が多かったことを覚えている。毎朝、仲良しの子の機嫌が今日はよかったらいいな、と学校に投稿しながら願っていたものだ。

 正に人の感情に振り回される子ども時代。そこにメリットは全くなく、でも他の人も同じに違いないと信じていたので、みんな頑張って生きているんだから、と自分をただ奮い立たせ続けて生きてきた。

 さて、生まれて40年以上経った今、私は母親として指導者として自分の大半の時間を過ごしている。人の感情を吸い込んでしまうのに、なぜ敢えてこれ程までに人にまみれる生活を選んでしまったのか、自分ではわからないままに引き寄せられてきたが、やっと自分の才能を活かすことが出来ているのだと気付いた。
 子どもを育ててみて、また教育者になってみて、大人がよく子どもに言って聞かせる「人の気持ちになって」とか「相手の立場に立って」ということが、他の人にとって意外と難しいことなのだと気付いたのだ。
 私にとってそのハードルはとても低く、相手の気持ちになって涙を流すことも度々あります。子どもたちが何も言わなくても、その子どもたちの気持ちや悩みを感じる私に、子どもたちが次第に集まる様になってきた。

 人の気持ちが視覚的に見える、というと大げさだしオーラの様なものが見えるのか、といわれると私はそんな非科学的な言い方はあまり好まないが。少なくとも学校勤務の時は、毎日授業をするクラス一つ一つに入った瞬間に、そのクラスのその日の雰囲気が見えていた。そこでその日のレッスンプランを少し変えることもよくあることだった。今、自分のレッスンでも教室に入ってきた瞬間に、子どもたち一人一人のその日のムードがわかるのは、私にとってごく自然なこと。

 何も状況をコントロール出来ない子ども時代を過ごし、大人になって変わったのは、大人だとその特性を能力として活かせる、というところだった。選択の余地なく与えられ続ける子ども時代から、自分で選べる場面が格段に増えたことは、何よりの救いだったのだ。

 私は教育の中でも「出来ないことを指摘する」のではなく、迷わず「励ます」方を選んだ。どんなに大人を困らせる子でも絶対何か良いものを持っていて、それに本人も周りも気付いていないだけなのだ、という考えの下本人やご家族にその子の良いところを見つけて伝える活動を始めた。
 そこで驚いたのは、そこからの本人の伸びと、家族の方の喜びの声。気付かないことに気付いてくれた、と感謝の声をたくさんいただいた。でも何よりも、今まで負の感情をたくさん吸い込んできた私は、こうして人の幸せや希望にあふれた感情に触れることで、とても生きやすくなったのだ。

 そう思うと、世の中にはいかに負の感情が多いことだろう。不安やねたみ、自信の無さや憎しみ、でも自分に可能性を見出した人は強い。自分を信じて生きていくことは、希望そのもの。私は今自分がとことん迷惑してきた自分の特性を、自分だけでなく周りの人も幸せになる能力として認めることが出来た。

 冒頭の言葉は、過去の負の感情にまみれた私からは出てこなかった言葉。しかし周りの人たちとの関わりの中で、自分の能力を見出し自分を認められたからこそ、今こうして堂々とここに宣言出来る。

 人は必ず宝物を持っている。その能力で自分も周りの人も幸せになることが出来る。出来ないことばかりに注目してしまう社会だけれど、出来ないことがあるのならば、その反対だって必ずある。
 
 自分に出来ること。
 したいこと。好きなこと。

 それに目を向けていこう。一緒に探そう。
あなたの辛さは、きっと喜びに変わるから。 

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