【ヒプマイ考察】波羅夷空却の宗教的背景について(後編)

 本noteはヒプノシスマイクのキャラクター、波羅夷空却のオタクである著者による「波羅夷空却の宗教的背景」についての考察論文*である。原作および特定の宗教団体とは一切関係ないため、その点のみご了承の上、お楽しみください。*随時更新予定

長くなってしまったので前編・後編に分けて投稿します。本記事は論文の後編です。(前編はこちら

前編の内容は、要約すると以下の通り。


  • 波羅夷空却の思想、行動、リリックを理解するために彼の宗教的背景を分析することは有用であり、検討にあたっては空厳寺の宗派をベースに考えるべきである

  • 公式の諸情報から、空厳寺は禅宗であることが分かる

  • しかし空厳寺は禅宗のみならず、修験道の思想も同時に持つ寺院でもあることが推測される


よって、後編は空厳寺に見られる修験道要素を掘り下げし、総括として、宗教的背景をもとに検討した波羅夷空却のキャラクター考察を行う。


修験道とは

 修験道という宗教の原型は、遥か昔、縄文時代より始まった日本古来の自然信仰に基づき、時代を経るにつれてだんだんと体系化されていったため、何をもって起源とするかは諸説が生じるところである。また、その特徴を説明しようとするとそれだけで本noteが数万字を超えてしまうほどに、複雑かつ奥が深い思想および宗教文化を有していると言える。
 しかし、尼の見解によれば間違いなく、修験道は波羅夷空却の修行観や生きる世界を理解することに資する思想と思われるので、最低限の文字数を割くこととし、どのような過程を経て日本の山岳における神仏習合の思想(つまりは修験道)が形成されていったかを本章で説明したい。

日本最古の信仰

 まず、日本には仏教の正式な伝来以前からきわめて原始的な自然に対する宗教的儀礼が存在していた。縄文時代においては、狩猟の恵みをもたらす山々への畏怖や感謝をあらわす信仰として、弥生時代以降は稲作豊穣や雨乞いを主旨として水の神などを祀る祈祷が生まれた。当時は人の営みは自然の恵みによってもたらされていた時代である。雨の招来や豊穣の祈りが山や河川に対して行われ、即ちそれら自然物は人知を超えた超常的力を持つ存在としてみなされた。
 その恩恵を受けんがために儀礼を行なってきた民俗の姿にこそ、自然に対して神々の形を見出し崇拝する修験道、その原初を垣間見ることができると言えよう。これにより、山岳を崇拝する信心が日本国内の随所に根付くにいたった。そしてそれらの信仰が、国家主導の政治的宗教儀礼と結びつくことによって、より強固な文化へとなっていったことが推測される。

仏教との交わり

 やがて日本には仏教が伝来した。当初は帰化人によって少しずつ仏教思想が広められ、頭陀行や夏安居などの慣習、さらには道教の仙人思想なども交わり、山々に籠もる宗教的修行が日本国内で発生した。
 さらに仏教が正式に伝来して以降は、これまでの日本には存在しなかった、体系化された智慧の集合的形式知として仏教が取り扱われることになる。
 当時の日本国家にとってこれはまさに最先端科学にも等しい価値を持ったものであり、積極的に国家システムの中に仏教思想を取り入れ、国が仏教を保有しこれを通じて政治を執り行うようになった。僧侶になるための出家得度には国の許認可を得なければならず、認可を受けて晴れて僧侶になった数少ないエリートたちは国家運営のためにも仏教を学ぶという、さながら研究を専門とする公務員のような役割を担っていたのだ。
 さて、このような仏教の在り方をある者は国家権力と結びついた堕落の姿と捉えた。またある所には年に数人足らずの出家得度者に選ばれることができず、されどさとりの形を求めて修行を求むるが故に、私度僧として国家の認可を得ずに僧侶の身分を名乗る者たちがいた。こうした僧侶たちが分け入ったのが、まさに奥深くの山岳であった。
 先に述べた夏安居や頭陀行、道教の仙人思想が山岳信仰と混ざり合った結果、民間人のみならず、仏教僧侶の間でも山間部での修行は心身を浄め、自然の力を借りることにより、超常的な力を得ることができると信じられていたのである。そしてまた、そのような験力によって里山に住む人々に対して利益をもたらすことができるとして、修行者たちは民間の信仰をもやがて集めることになるのだった。

験力を求める修行者

 超常的な力によって現世に生きる人々を利益せしめるというのは、ある種の呪術的行為とも言えよう。呪術といえば、日本の宗教においては密教との関連性が示唆される。密教そのものは平安時代に空海と最澄によって招聘、体系化されることによりこの国に定着したが、それ以前に国内の山岳道場で行われていた呪術行為は、体系化された正式な密教(純密)ではなく、非体系的な密教、すなわち雑密と呼ばれるべき有象無象の信仰だった。雑密は呪術により験力を獲得することを目的とし、仏教的なさとりや衆生救済を目的とした行為とは異なる点において、より世俗に近い存在であった。ただし、純密が国内に浸透する過程において雑密は吸収された。そして時が経ると、やがて各地域に根付く自然崇拝・山岳信仰と、数多の教学により体系化された真言密教や天台密教と強固に結びつき、都を厭離する僧侶たち、あるいは験力を求める僧侶たちが一層「山」にさとりの在り方を求め、密教の修行が山岳道場において実践されるようになったのである。

 修験道とは、「修験アリ(霊験を修めることができる)」と噂される神秘的な山々を渡り歩き、あるいはそこに住み着きながらさとりを目指して山岳修行を行うことから名付けられた。
 
まとめると、そのバックボーンには日本に古くから根付く自然崇拝の信仰と、インドから伝わる仏教の文化や道教思想、さらには密教の修行法が取り入れられた経緯があった。これにより現代に伝わる修験道の素地ができあがり、中世以降は修験道が全国的に拡大、さらには村落社会の信仰におけるリーダーのような役割を修験者が果たすようになっていったのだった。

神仏分離による修験道の解体

 中世から江戸時代までの修験道はきわめて盛んで、特に修験道の道場は一部仏教の宗派(真言宗と天台宗)にも吸収されながら激増していったという記録が今もなお残っている。ところが、これほどまでに日本人の宗教観に古代から深く関わってきた修験道という宗教が、なぜ現代においてはすっかりと息を潜めてしまったのだろうか。
 これはひとえに、明治政府によって下された神仏分離令が修験道に対して壊滅的な打撃を与えたことによる。この令によって、神道と仏教が混ざり合ったものは正しくそれぞれに分けるべしとされ、廃仏毀釈運動も加わり、仏教寺院は徹底的な破壊活動を受けることとなる。そして修験道はまさに神仏混淆を象徴する宗教であったが故に、明治政府はついに修験宗自体を廃止する措置まで取ったのである。
 よって、江戸末期から明治維新前後には二十万人近くいた修験者たちは全て解体され、組織的活動を行なっていた修験宗派のみが真言宗、天台宗と合流し、民間レベルで行われていた信仰活動は消滅することとなった。
 ところが、思想史上は実質的な仮死状態を迎えたと言っても過言ではない修験道は、それでもなお、現代でも霊山を拠点に信仰活動を保っている。
 また、今日の日本人にもいまだに自然を尊んだり、そこに神聖な感覚を覚える信心が残っていることからも、修験道が歴史の中で私たち日本人に与えた思想的影響の大きさを感じ得ることができるだろう。

空厳寺と修験道

 以上、簡単に修験道についてその思想発展を踏まえて解説を行った。ここからは、空厳寺が修験道の思想を持つ寺院であるということを根拠と分析的仮説をもって演繹的に論じていく。(以降、「修験道」の語は修験宗の意ではなく、神仏習合的な自然への信仰習慣として再定義する)

 まず、公式が明らかにした情報の中に、空厳寺に修験道、すなわち神道や自然崇拝にかかわる慣習が伝わっていることを裏づける事実がある。それは、波羅夷空却が行った荒行……すなわち「滝行」が波羅夷灼空によっても行われたものであり、どうやら空厳寺に代々伝わると思わしき修行であるということだ。まずは本点から検討していこう。

滝行の分析

 前編で触れた通り、実は滝行はそもそも仏教において推奨されることのない修行法である。仏教は身体的苦行を認めていない。なぜなら、苦行を実践してもさとりに至ることができないというのは釈迦がすでに実証済だからだ。
 しかし、実のところ日本仏教においては荒行を実践する宗派が存在する。これはインド、中国、日本において、仏教がヒンドゥー教や道教、神道などの土着の信仰と混ざりながら発展してきたことにより、それら土着の信仰から「心身の汚れを落とし、鍛錬をすることによってさとりへ近づくことができる」という思想が習合した結果、荒行が取り入れられることになったためである。天台宗などが実践することで知られる「千日回峰行」や、真言宗の「護摩満行」もまた、そのようなプロセスを経て生まれたものと思われる。
 ところが空厳寺と荒行について考えるならば、仮に空厳寺を禅宗であると考えた場合、荒行の実践はあり得ることがない。なぜなら禅宗においては、荒行などと呼ばれる修行はそもそも存在しないからだ。(尼が空厳寺を当初、禅宗ではないと断定したのはこれもまた理由の一つだった)
 では、なぜ空厳寺では滝行という荒行が実践されているのか。この慣習が仏教によるものでないとすれば、一体どこから流入してきたというのか。ここに尼は、修験道の思想が関係した結果、空厳寺に滝行が伝わったという説を打ち立てたい。そう、仏教以外の思想によってもたらされたのならば、禅宗寺院である空厳寺に滝行の修行が伝わっていてもおかしくないのである。

 前編でも説明した通り、滝行は山岳修行の一貫である。どのような目的をもって行われるかは修行者やその宗教によって様々ではあるが、根本に共通するのは「垢離」の考え方であると言えよう。「垢離」とは、垢(よごれ)が離れると書く通り、その心身を特に水によって浄めることを指す。これはまさに神道でいうところの「禊」の概念であり、仏教や神道問わず、神仏に詣でる前には心身を浄めてから祈願を行うものとして古く(日本書紀に始まる)から用いられてきた考え方である。
 その手段としては、当然のことながら滝行があるほか、川や海、さらには温泉などに浸かることもまた「垢離」とされる。この自然(水)の力により浄めを受けるという構造からもすでに「自然を神聖なる対象」とする信仰が垣間見えるように、滝行(および水行)は修験道において特に活発に行われてきた。
 空厳寺に「滝行」が荒行として伝わり残っているということは、繰り返すが仏教に由来するものではない。おそらく、修験道的な山岳信仰が昔からこの寺(及び周辺の山)では実践されており、それが神仏分離の荒波を無事に耐えて、今もなお寺の慣習として残り存在しているという仮説が、この滝行によって立ち得るのである。

禅宗と修験道の親和性

 次いで、禅宗と修験道の親和性について解説する。修験道の歴史を述べた際、「真言宗」と「天台宗」はその関わりの深さが指摘されていたが、では空厳寺が禅宗であったとすれば、果たして禅寺に修験道や山岳信仰に関する思想が根付く可能性があるのだろうかという疑問が残るであろう。
 端的に述べて、結論はYesである。禅宗系寺院に修験道や山岳信仰の思想が受け継がれることは、日本の宗教的環境を考えれば大いに有り得る。さらに、特に曹洞宗は山岳信仰と高い親和性を持って発展してきた歴史があることをここではご紹介しよう。

 曹洞宗と修験道との関わりは、曹洞宗開祖である道元が入宋・帰国の際に白山権現に助けられたという伝承に始まる。これに由来して曹洞宗の大本山である永平寺は、鎮守神を白山権現とし、毎年白山へ永平寺の僧侶が参詣して般若心経を読経する慣習が残っているので、そもそもの大本山の在り方からして山岳信仰との関わりを見出すことができる。
 だが、それはあくまで白山権現と永平寺のみの話であって、当初は全国各地の民間信仰と曹洞宗のかかわりは殆ど見られなかった。なぜなら開祖、道元の性格上、民衆の目線に降り立って現地の民間信仰を迎合し布教活動を行うといったことは、曹洞宗では当時行われていなかったため、民間信仰との融合を進める理由がなかったのである。
 このため、同時代に同じ中国禅宗の流れを汲む臨済宗が幕府や貴族の擁護を得て発展していったことに対し、曹洞宗は教義としての純粋さを保つ一方で道元が没して以降もしばしば経済基盤が不安定な状態が続き、常に興亡を繰り返していたという。
 ところが、時代が降ると曹洞宗の中の動きが変わっていった。曹洞宗もまた、経済基盤の強化を目指し、布教のために地方豪族や民衆の帰依を集めるべく、多角的な布教活動を地方へ展開していったのである。その際、布教活動のカギとなったのが民間信仰(特に山岳信仰)であった。
 曹洞宗は布教活動の際、その土地の人々に自らの思想を受け入れてもらうための手段として、各地の山岳にて山伏(修験道の修行者)のように修行を行っていたという。そこで体験した神異譚に基づき、あるいは山岳信仰と曹洞宗の教えを習合させて、寺院を建立するといった手法を取ったようだ。
 このためか、曹洞宗ながら修験道や山岳信仰の文化を有する寺は意外にも多い。(もちろん、天台宗や真言宗から宗派転換を経て曹洞宗になった寺院も中には含まれることは御留意いただきたいが……)
 よって、空厳寺もまたこうした曹洞宗による布教活動の一環として、その土地に根付いた修験道(山岳信仰)思想と融合する形で寺院建立がなされたという仮説を立てることができるのである。


空厳寺の立地

 空厳寺には、修験道の思想が流れていると思わしきエヴィデンス(滝行)がある。さらには空厳寺のベースが曹洞宗であったとして、修験道の思想が同居することも現実として大いにあり得る話ということがわかった。
 では、最後の問いは、愛知県の名古屋周辺には果たして修験道や山岳信仰が根付く余地があったのかということについてだ。だが、これも答えはYesである。江戸時代までは愛知県名古屋市やその周辺にも、修験道の思想は一定栄えていたことが資料により明らかになっているためだ。

 まず、名古屋について確認しよう。通常、修験道は自然豊かな山間部にて行われるものである。だが名古屋はご存じの通り山らしい山がなく、丘陵部や台地、沖積地が広がる穏やかな地形を持つ土地である。こういった環境下でどのような修験道が盛んだったかというと、いわゆる「里修験」と言って、村落や町中に身を置いて領主の庇護下で活動する修行者たちが多数定住していたようだ。つまりこれにより、名古屋の地も山岳の有無を問わず、例外なく土着信仰の修行者が近代まで存在していたということが証明される。

 続いて、尾張地方全体を俯瞰する。名古屋だけでなく、尾張にも地形の高低差はあまり無く、人々にとって交通路も良く暮らしやすい土地であったことが伺える。しかし裏を返せば、山岳信仰の修行地としてはあまり適した環境とは言えなかったため、尾張には「修験道の修行地である」とされる山が存在しない。比較して、山岳地帯が集中する三河(特に奥三河)が多数の修験道場を有していることからも、その様子が伺えるだろう。
 だが、修験道とまでは行かずとも「山岳信仰の修行地であった」と思われる土地は、丘陵部を中心にいくつか存在する。例としては、例えば「尾張三山」などはまさに山岳信仰の残る地域として挙げられる。
 本点を検討するには、果たして空厳寺がどこに所在するのかということが関わってくるが、尼はまだ空厳寺に関する諸考察を完了させていないため、これ以上の言及を控えさせていただくこととする。(ヒプアニ二期を終えて、尼が現地のフィールドワーク等を完了させた暁には日の目を見る時が来るかもしれない……)
 ただし諸媒体の描写から周辺状況を鑑みるに、空厳寺はどうやら山に囲まれた寺院であることが伺え、公式では過疎化が進む田舎町かつ、自然が豊かな一帯であることが明記されている。これに基けば名古屋市内に空厳寺が所在するとは考え難く、丘陵部より北または東部に位置すると推測されることのみここに記しておく。(滝行ができるような土地があるのか⁉️という問いは重々承知の上で。。。)
 ともかく、尾張の宗教的環境を考察したところ、どうやら修験道や山岳信仰の思想は例外なく盛んだあった様子なので、尾張にて裏山を有し滝行を修める空厳寺が修験道場をかねていたという仮説が、けして不自然ではないということを立証することができるといえよう。


波羅夷空却についての考察

 さて、およそ二万文字をかけてここまで検討してきたことをまとめると、以下の通りである。

・波羅夷空却および空厳寺の宗派は、禅宗系(特に高い確率で曹洞宗)である。
・だが空厳寺は禅宗のみならず、その地理的環境、歴史、修行法、波羅夷空却の言動を検討するに、禅宗だけでなく修験道(山岳信仰)の実践道場を兼ねている可能性が高い。
・よって、波羅夷空却の中には禅宗と修験道(山岳信仰)の思想の両方が同居していると思われる。

 しかし、この考察の目的は波羅夷空却というキャラクターを一層理解するということが発端だった。以上の結論をもって「波羅夷空却のあの言動はこんな解釈ができるかもしれない」とか「禅宗かつ修験道思想を持つ波羅夷空却はこんなことをするかもしれない」「こんなシーンがあったかもしれない」などと想像の翼を広げて多角的に波羅夷空却をイメージできることが、いわば考察活動の醍醐味なのである。
 ということで本論の結びとして、「波羅夷空却に修験道の思想が受け継がれている」とすれば「今ままでの彼の言動をこのように解釈することができる」といういくつかの見解をご紹介して終えよう。


山での修行

 なぜ波羅夷空却は山での修行が好きなのだろうか。まだ彼が純粋な仏教徒であると疑わなかった頃の尼は、この行動を大いに疑問に感じていた。公式(てか脚本家❓)はきっと仏教の正体を勘違いされているのだろうとも考えていた。しかし、検討を重ねた結果、波羅夷空却が修験道の思想を受け継ぐ空厳寺の息子であるなら、やたらと山修行を好むことも理屈が通ってしまうことが判明したのである。公式がそこまで計算していたかはさておき、尼個人としては宗教的論理が伴う行為として波羅夷空却のことを解釈できるようになり、非常に嬉しい。。。
 ARBでの描写やコミカライズにおける簓との修行を見ていると、波羅夷空却の修行法は数日間、山にこもってひたすらに山中を歩き続けるもので、時々、火の上を歩いたり滝に打たれたりなどしている。これはいずれも修験道の修行法で道で、山をひたすら歩き続けるのは「山駆け」、火の上を歩くのは「火渡り」と呼ばれる修行である。そしてさらには、コミカライズでは高尾山と思わしき場所と、富士の樹海と思わしき場所へ修行として出掛けていた。これらは両方とも修験道的な山岳信仰を有する霊山であることも注目に値すべきだろう。波羅夷空却が、ちゃんとことごとく修行地に霊山を選んでいるということが分かるのである。。。。(仏力高くて最高)

龍との関係とは

 なぜ波羅夷空却は龍をモチーフとしているのか。ソロ曲では「evil monk da dragon of BAT」と名乗り、双眼は蛇のような目で、スピーカーの形は梵鐘の竜頭である。中日ドラゴンズと掛けているのでは❓というお声もフォロワさんからいただき、それはそれで納得なのだが、荒行が滝行であったことと空厳寺の裏山が山岳信仰の地であったことを考えると、あくまで想像だが、もし滝行が水神の加護を得る類のものだったら……?と考えることもできるのである。水神とは文字の通り水を司る神のことで、コミカライズのリリックで波羅夷空却自らも説いていたように、仏教ではNāga(ナーガ)として考えられるもの、つまりは蛇神および龍神のことを指す。インドにおいては蛇であったのが中国では龍信仰と習合し、ナーガは龍として日本に伝わった。修験道においても龍神は信仰の対象として、滝行などとよく結び付けられてその加護を得ることを目指す。
 もし、空厳寺の裏山にある山岳信仰がその滝に棲むとされる龍神を中心としたものであったなら、空厳寺はさながら龍神の守人であり、それと同時に龍神の加護を受けて鎮守される対象となるだろう。
 さらに、空却は父親も成し遂げられなかった程の難行と思わしき滝行を完遂している。これをもって修験道の教義的に考えれば、波羅夷空却が「龍」に認められ、その力(加持力)を得ることのできた存在として解釈することができるのである。evil monk da dragon of BATって、、、そういうコト、、、⁉️(最高)

B.A.Tロゴの鳥居

 なぜB.A.Tのロゴに鳥居が使われているのかということについては、長らく一部の(宗教もしくは考察好きの)オタクの間で謎のままとなっていた。単にビジュアルデザインの都合によって描かれた可能性が高いことは重々承知ではあったが、これも神道と仏教の習合である修験道の思想から考えれば何の違和感もないこととなる。
 
前編にて一部言及した豊川稲荷などが、その良い例である。豊川稲荷は曹洞宗の仏教寺院であるにもかかわらず、参道にはいわゆる山門ではなく、神道の鳥居がデカデカと建てられている。仏教の中での神様にあたる天部を祀っているため、神道的な様式を用いていると思われるが、そもそもそのように仏教の中で神道様式が用いられていること自体が神仏習合の名残である。豊川稲荷も本来であれば明治政府の神仏分離政策の餌食となっていたはずだが、猛烈な抵抗によりなんとか奇跡的に分離策の難を逃れることができた日本の中でも非常に貴重な寺院だ。
 しかし、程度の差はあれど全国には同様に難を逃れることのできた寺院も少なからず存在する。(うまく役人を誤魔化したり、山深さのあまりに役人が分離の実態調査を諦めたことで現代でも神仏習合の名残を留めている場合もある……明治の役人も重労働だったのだろう)
 よって、空厳寺もまた明治政府の目を流れ、山岳信仰の影響により古くから神仏混淆とした状態を保っていたという可能性は大いにあり得る。なにせコミカライズの中では、空厳寺には釈迦如来像がある一方で、うっすらと神鏡のようなものが祀られているように見受けられるのである……。シナリオや作画担当の方がどれほど仏教を理解して作品を描いているのかはまったく定かではないが、この一見矛盾にも思える描写も本論で立てた「空厳寺に修験道思想が存在する」ということを論拠にすれば、「神仏習合が残っている寺」ということで乗り越えることができる。オタクは……強い……!
 話を戻すと、修験道系の滝行道場には、水神を祀るための鳥居が建てられていることが多い。よって空厳寺裏山の滝にも行者堂や鳥居が建てられている可能性が高く、そんな宗教的背景をもった波羅夷空却が神や仏を明確に分離して区別する思想など、そもそも持っていないのではないかと考えるため、キャラクター解釈から見たディビジョンロゴの鳥居も、さもありなんとして理解ができるようになった。

自然への感謝

 最近の尼的大ニュース、ARBのカードで「夕日を拝み、自然に感謝する波羅夷空却」が現れたことについて。これを見たときの尼の気持ちと言ったら、手を叩いて大はしゃぎしてしまったし、自然ってかそんなハライの存在に爆南無感謝‼️😭というお気持ちだった。
 こういった発言が出てくること自体が修験道や山岳信仰の根幹にある自然に対する信仰を彼が持っていることの証明であり、この人は山々を歩くときも空を見上げる時も沈む夕日を見る時もその美しさの中に自然の尊さと感謝の気持ちを感じながら生きてるのかもしれない……草木国土悉皆成仏、一切衆生悉有仏性って思いながら生きてるのかもしれない……仮にそう思っていなかったとしてもその思想が彼の根幹には必ず流れているので(なぜなら修験道場であり禅宗の空厳寺に生まれ育ったから……)だから結果として時折彼から自然を感謝したり敬う言動が出てくるのだろうと思うと、尼は……尼は……(南無)

霊感・除霊

 また、波羅夷空却と波羅夷灼空は霊感を持ち除霊を行う能力があると公式で描写されているが、本来的には仏教寺院は除霊を行う役割ではない。僧侶に除霊方法があるかと聞いたところで、ほとんどの僧侶からすれば「経験はないけれど、お経を読むとかですかね❓」と言われることだろう。(ただし、密教においてはそれに近い修法がある)
 しかし、これも空厳寺が修験道の思想を持つのだとすれば説明がつく。元々古代から除霊の役割を担ってきたのは、修験道や陰陽道といった宗教だった。特に修験道の行者(すなわち山伏)はあちこちを渡り歩きながら加持祈祷をによって、憑き物落としや邪霊の調伏を行っていたという。具体的には九字を切ったり、神仏の力を借りて霊を縛り追い出したりなどが挙げられ、真言・天台密教にも調伏法はあれど、修験道の方がその数は多く、目には目を歯には歯をといった呪術的な要素が強いと言える。民衆に向けての除霊の役割は、永く修験道が担ってきたためできることの範囲が広いのだろう。
 昨今のARBでも低級動物霊に取り憑かれた天国から悪霊を退散させるシーンがあったが、その際に唱えられていた謎の詠唱(鬼泣啾啾、雲散霧消、天空開開、降伏滅魔、天地開闢……)も明らかに仏教由来のものではなく陰陽道や修験道の混ざったものがモチーフと思われる。仏教的に見れば波羅夷空却の除霊描写はまあメチャクチャな設定ではあったものの、修験道(および民間信仰)の流れからくるものとして考えれば、なるほどこちらも理屈が多少通るのである。空厳寺は多くの修験道祈祷寺院がそうであったように、歴史的に地域の悪霊トラブルの解決役を担ってきたかもしれない。そしてそのようなバックボーンを持つ寺出身の波羅夷空却であるならば、二次創作で彼らを全国遊行させ、除霊調伏・仏道説法の旅をさせることも合理的にさせられるってワケ……。

結語

 楽しい!!!!!!!!!!!
 当然のことながら、二次創作とは個人の想像の自由が発揮されるべきものである。しかし、こうしてFactベースで公式の情報を分析し現実世界に照らし合わせた上で考察を行うことで、キャラクターの解釈を助けたり想像の幅を広げることができる……これこそが二次創作における評論的考察の面白さだと尼は思う。

 波羅夷空却の宗教的背景の考察は、公式から新たな情報が出るたびに刷新されるべきであり、本論はヒプノシスマイクのコンテンツが終わるその日まで永遠に完結することがない。そして尼も波羅夷空却のファンでいる限りは、公式からの新たな情報に応じて常に今後も検討を重ねていく所存だ。

 ここまで読んでくださった方には改めて感謝の意をお伝えしたい。少しでも皆様が波羅夷空却というキャラクターを好きになる(関心を持つ、興味深いと思う、愛が深まる)ことに本論が資することがあれば、オタク冥利に尽きるところである。

 波羅夷空却はやっぱり南無い、南無すぎる‼️🥹


 

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