魂の有無

魂の有無を考えた時にどう答えるだろうか?

わたしの見解としては「ある」なのだが、きっとその理由、「証拠を述べよ」と言う人も居る筈だ。

それに関してわたしなりの答えもある訳だけれども、問題が2つある。
一つは、それを証明するのに如何程の労力や苦労が必要かという事だ。そしてそれを行ったとて、「証拠を述べよ」と叫ぶ人達が納得するかどうかは別だということである。

「証拠を述べよ」と言うのは実に科学らしい。しかし、時にはその証拠を述べることを人に強いることは多くの苦痛を味合わせることになる。それがもしその人にとって分かりきった事実なのだとして、しかしそれを証明する為に人生の大半をつまらなく過ごすような事をしいるのであれば、それでも「証拠を述べよ」と言うのは如何なものだろうか。その証拠を提示したとして、それでも数が少ない事例を信じるかどうかはまた別なのにだ。

映画やドラマ、漫画やアニメでもマッドサイエンティストは数多くいる。マッドサイエンティスト達は科学を純粋に信じており、それ故に科学の為ならと犠牲を厭わない。
科学らしく「証拠を述べよ」とばかり叫ぶことは、そんなマッドサイエンティストの一員に自身もなることでもあり、それが科学の本質の一部でもある。

これを詭弁だと捉える人もいるだろう。だが、事実でもあるのではないだろうか?その事実を受け入れないのであれば到底科学らしいとは言えまい。

科学とは狂った一面を持つ。故に科学の危うさを無視して信奉した社会は狂った側面を内包する。それを認めては如何だろうか。

さて、そんな訳で魂の有無に関しては「ある」とだけで理由までは言わないが、「ある」とした時に死の取り扱いに対して困ることが生じたりする。
つまり、魂としての死が無いのであれば肉体として死を軽く扱って良いという発想である。

それは他人に対してであれ自身に対してであれ、死を軽く扱うと様々な問題が発生することは分かることだろう。
でも本当は単純な話なのだ。
人、つまり他人と自分を闇雲に傷付けて良いか否か。
そんな話である。

他人を傷付けるのは良くないのだと、直ぐに納得してくれる方も多くいると思う。しかし一方で、自分を傷付けることは別だと語る人もいる。

だが、魂という観点で見た場合には自分の体は祖先から受け継いだ器だ。つまり先祖そのものであるとも言える。
そんな自分であり他人でもある自分を傷付けるとどうなるのか。

これは人それぞれなのかもしれない。
しかし自分を傷付けることは自分や他人への裏切りとも言える。
そんな裏切りは、人を裏切り、人に裏切られ、自分に裏切られる人生を歩む結果を招くかもしれない。

では、自殺してしまった人に救いは無いのだろうか。

救いはある。
それはその人が裏切りを赦せた時である。
だから、過去に人や自分に裏切られたことがあればそれも赦してあげて欲しい。

何度も何度も、同じことで苦しまなくても良いのだから。

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