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好きだったドラマを思い出す。


実は、私はあまりTVドラマをみません。
ハラハラドキドキしてしまって…途中どうしても消してしまいたくなる事が多いのです。
あと、人間的なモノがちょっと苦手。うまく言えないけど…(小説なら平気だったり)

そんな私でも、気まぐれで全て見てしまうドラマって極たまにですが、あるんですよね。

やはり途中、チャンネルかえてみたり、音楽聴いたりはしちゃうんですが…。

もう記憶もだいぶ薄れてしまっているけれど、当時の私の心に刺さって仕方なかったドラマの事を思い出したので書こうと思います。


大切なものはいつも「忘れてしまえないように」誰かがつくってみせてくれていた。


10代後半のどこか。


それは海で自殺をはかり記憶喪失になったフリをする女性が歩みだす愛に溢れた日々の話。

ドラマ「あいのうた」


ヒロイン菅野美穂。可愛いですね。菅野美穂。
そして相手役は玉置浩二。彼の田園は涙流れる。


当時の私は、そのドラマをみて自身が枯れるのでは?と思うほど泣いたという。
どういったところが、私の泣き所なのか当時の私を思い出したところ

『つくりもの(ドラマ)の世界の中に私が欲しかったものが、い、いっぱい詰まってる〜なんで〜』(ギャン泣き)

だそうです。
わかるよ。
当時の私は、まだ、私の事を掴みきれてなかったから「誰かに愛される」ことへの憧れで焦げに焦げていたんだよね。
それでも、誰か達のように上手に誰かを愛することも、愛してもらうことも難しかった私にとって、たとえドラマのシナリオといえどぶっ刺さったというか、なんだろ、ショックだった。

そう、優しい世界が目の前で展開されていく事がショックだったんだと思う。

ドラマ見てる間に溶けてなくなるほど泣いたんじゃないかな。
悔しくて、悲しくて、やりきれなくて、でも嬉しくて、幸せ。 

何時だって恨みきれない他人の幸せが、私の傷になる事を、私は嬉しく悲しく思っていたようだ。
誰か達の幸せは好きなんだけど、自分が欠けてるのを自覚させられてる感じが何ともだったんだよね。


いまはただ他人の幸せ、ふんわり嬉しいんだよ。欠けてるのも許したというか、それが私だと気づき直したというか。成長したわ〜。笑


誰かの伸ばしてくれた手を、ぎゅっと握って立ち上がることの尊さを、私は経験していないくせに知っていた。よく知っていたんだよ。
そして、よく解かっていなかった。

劇中で偽名である「あいちゃん」って呼ばれる菅野美穂がひたすら愛おしく感じて、その名前を優しく優しく呼ぶ玉置浩二の存在に唯ひたすら憧れた。

誰かに愛されるということは、誰かを愛するということ。
誰かに愛されるということは、自分も愛するということ。

愛とはそうやって繋がり広がるものである事を私は解かっていなかった。けれど感じていた。
ひたすら孤独に落ち続ける当時の私には、眩しすぎる癖にしっかり見て、しっかり傷ついていた辺りが………本当、私だね。


いつも探していた
「帰ろう」という言葉。

無意識の私の言葉は
「帰りたい」だったから。

実家ではない。
自分で住む場所でもない。
しりもしない帰りたい場所。

私はいつも帰りたかった。
そして、帰ろうと言ってくれる誰かを待っていた。

ずっと何処かで待っていた。
擬似的につくろうとして失敗したりした。

そんな当時の私だったから
あのドラマは胸に刺さったのだろう。
帰る場所をみつけた「あいちゃん」の姿は憧れたそれだったのだから。


愛は人を癒やし育む。
そして愛を生む。

ドラマはそんな風に私の心に残っている。



月日は流れて気がついた。
あぁ、そうか。
此処にはいないんだね、と。
それなら、それでいいのだと。
私は私に孤独を許した。

そうしたら解った。
私の持つ愛は誰か一人に向けるものではないこと
。それでよかったこと。
それでも愛は繋がっていくこと。 

切なくて、眩しくて、温かい。

人間として私が観てきた愛は素晴らしいものだということもきちんと解った。
私がこの星で得たもの。

愛は様々。
どれも愛だろう。
人それぞれの愛があるのだろう。

私は私の愛を込めて、言葉を発信する。

いつか
かえったときに
たくさんおしゃべりしたいことで
うまってますように

忘れてしまうかもしれないソレを抱きしめて。

そうそう、主題歌がねぇ…やはり当時の私に刺さってました。
特別なものなんていらないから、ただ、明日、手をとって歩きたかっただけの私という子は、大変可愛いのでは?と思う私でしたとさ。

サポート設定出来てるのかしら?出来ていたとして、サポートしてもらえたら、明日も生きていけると思います。その明日に何かをつくりたいなぁ。