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なぜ、ぼくはぼくなのか。

「なぜ、ぼくはぼくであって、ぜんぜんべつのだれでもないの?」

子どものムーミンパパは、ヘムレンさんに尋ねます。
ヘムレンさんはこう答えます。

「わたしたちふたりにとって、運がわるかっただけのことさ。」

『ムーミンパパの思い出』第一章のやりとりです。

私が私である理由。
私が私であることなんて当たり前のようだけど、
全然当たり前じゃないのかもしれない。
どうして他の誰でもなく私なのだろう。
私も不思議に思うことがある。
普段は忘れていることだけれど。

この疑問を書き留めていた作家に思い当たる。

中島敦(1909-1942)。

彼は「疾狼記」で、
南洋土人の生活の実写がうつされたスクリインを見て、久しく忘れていた或る奇妙な不安を感じる。

確かに自分も彼等蛮人共の一人として生れて来ることも出来た筈ではないのか?そして輝かしい熱帯の太陽の下に、唯物論も維摩居士も無常命法も、内至は人類の歴史も、太陽系の構造も、すべてを知らないで一生を終えることも出来た筈ではないのか?此の考え方は、運命の不確かさに就いて、妙に三造を不安にした。

中島敦「疾狼記」

「ぜんぜんべつのだれか」になっていたかもしれない不安。
その不安とともに、耐え難いいらだたしさも感じている。

此の世には自分に見ることも聞くことも考えることも(経験的にではなく能力上)出来ないものが有り得る。自分が違った存在であったら考えることが出来たであろうことを、自分が今の存在であるばかりに考えることも出来ぬ。こう考えて来ると、漠とした不安の中にありながら、なお当時の三造は、一種の屈辱に似たものを覚えるのであった。

中島敦「疾狼記」

偶然、私は私であった。
運わるく、私は私であった。
ああ、なんて私は不確かな存在なのだろう。

ムーミンシリーズを読んでいて、
目に飛び込んできた問いかけ。

中島敦の不安といらだたしさ。

ぜんぜんべつのだれかではなく、
ぼくがぼくであることを、
私は「それで良かった」と思えるように、
生きていきたい。

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