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生理についてきちんと語りたい


「3階の奥です」

二日間くらい軽い吐き気に悩んでいたら、やっぱり生理になった。

トイレの棚を見ると、いつも使っている夜用のナプキンが切れていた。21時から友人と会う約束をしていたから、待ち合わせ場所の横にあった薬局に入ることにした。

新宿の薬局は21時を過ぎていても混んでいて凄い。シャンプー、リンス、マスカラ、目元のパック、目薬、ビタミン剤... 棚の間を全て歩き回ったけれど、生理用品がない。近くにいた男性の店員に「生理用品、どこにありますか?」と聞くと3秒くらい沈黙があった。名札を見ると日本人の名前ではなかったから、もしかして早口過ぎたかなと一瞬反省する。でも、どうやら言語の問題ではなかったらしい。少し気まずそうに

「3階の奥です」

と言い残して、陳列作業へ戻って行った。男性に聞いたのが間違いだったな、と少し反省したくらい、微妙なやりとりを交わしてしまった。それとも、ただ単に場所が思い出せなかっただけなのだろうか。

3階に上がってみると、あった。メイクのコーナーの奥に、ひっそりと様々な種類の生理用品が並べられていた。一つ手にとって、一階のレジに向かった。

なぜ、3階の、おまけにわざわざ奥?心がざわついた。生理用品を買うとき、1分1秒を争う事態はしばしばある。女性陣なら、それはよく分かっているはずだ。

外出中に生理になった→ 持ち合わせのナプキンがない、よりによって薄い生地の下着(Tバックとかだと絶望、150%やばい)、スカートの色が白、1日目の謎の大量出血、など色々なファクターが組み合わさると、辛い心持ちの中漏れなく死が待っている。(漏れないでかけているわけではない)今シャンプーをしないとやばい人より、生理用品がないとやばい人の方が多いと思うんだけど...。 1階の陳列棚は緊急で必要がなさそうなものが沢山並べられていた。

レジで1000円札を取り出した一瞬の間に、店員によってナプキンはすっぽりと紙に包まれてしまった。コンビニでも薬局でも、生理用品はこうして外の目に晒されないように包まれる。3階の奥にあるみたいに。

マスメディアで描かれる生理も、「血」はオブラートに包まれている。「血」という言葉は一切出てこないし、視覚的には赤ではなく青の液体を使って表現されている。(個人的に血は苦手だから青くてもいいかなという気もするので複雑な気持ちだが)それよりも、生理用品のCMでありがちな謎の爽やかさが気になってしまう。別に、ナプキンがずれないからと言ってしあわせ素肌にはならない。「最高な気分!」とも、「1日が過ごしやすい!」ともならない。ナプキンから血が漏れるか漏れないかの前に、個人差はあれど頭痛、腹痛、吐き気、コントロールできない情緒など爽やかとはかけ離れた数日間が生理なのだ。そして、これを、女性の辛さを分かってくれというスタンスで書いているわけではない。ただ、それが事実であるというだけで、変に綺麗なものだと解釈したり、タブー扱いしてほしくないだけだ。

そう考えたときに、生理用品をポーチに入れることがマナーだと信じ切っていた自分に衝突した。私自身も、あのレジの店員が紙で包んだのと同じように、自分のナプキンをポーチに入れて持ち運んでいた。思い返すと、「ポーチに入れることがマナー」というのは小学校で教わったのだ。だから、ナプキンをそのまま手に直で持ってトイレに行く子なんて一人もいなかった。それは、廊下を走っちゃいけない、食べる前は手を洗わなくちゃいけない、というような簡単なルールよりもきっちりと守られていた。

そして、公共の場でナプキンを裸で持ってトイレに行く女性を1度も見たことがない事に気付いた。それは、ナプキンを持っていることがなんとなく「恥ずかしい」ことだと小さい頃から植え付けられた後遺症が心にしっかりと根付いているからだと思う。そして、「恥」の感情は簡単に消えない。

生理がタブー扱いされる根源を突き詰めていくと女性の神格化や処女信仰など色々なことが芋づる式で出てくるからこれ以上は書かない。怖いのは、フェミニズムや#Metooなどが盛んになった今でも、目を凝らさないと分からないほどの女性差別がそこら中に散らばっていることだ。

もう少しだけ、社会は生理に対してニュートラルな見方が出来ないだろうか。社会の目に触れさせないためのフィルターをかけていくと、当事者の女性の恥は深まる一方だ。男性も、「男だから触れられない」と引き腰にならなくったっていい。間違っていたらそれは間違ってるよ、ときちんと言うし、それ以前に話してはいけないもの、理解のできないもの、と扱われる方が怖い。

最後に、イギリスで話題になった#Bloodnormal というCMのリンクを貼って締めたいと思う。経血は青ではなく赤である、という当たり前の事実が描かれている事に対してセンセーショナルさを感じてしまうことが悔しい。

世の中が、もっと当たり前に追いつくことを願う。男性と女性が同じ人間であり、同じ権利とリスペクトを与えられるべきである、という当たり前を主張することは、現在、世で持て囃されているほどセンセーショナルなことではない。必然であり普通であり、当たり前だ。



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