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きっと人生は音楽に補われて成るのだろう。[ "MOMENTS" bohemianvoodoo ]

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この記事は、掲題アルバムの音楽から受けた印象と物思いを、全くの主観で書き綴ったものです。もしかしたら貴方の感性と相反するかもしれませんが、ご容赦いただき、暖かく見守っていただければと思います。
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石の教会

軽やかに紡がれる音と重厚な基底音で始まるそれは、幼い少女と石造りの教会をイメージさせる。

けれども少女はそこに留まる存在ではなく、間も無く教会の外へと駆けていく。そのステップは千変万化、時には歩くように、時にはスキップを交えて。

歩くこと、走ることは手段だ。目的ではない。
だが少女のそれを見ていると、手段は楽しみの対象足り得ると思い出させられる。
なぜ貴方はそんなにも辛そうに道を行くの?歩くこと、楽しくないの?
そう言われて私は、はっとする。

駆けゆく小さな存在に、音に、不安を覚えないのは、きっとそこに帰る場所があるからだろう。石で出来た教会はいつまでもその門を開いて、彼女たちの帰りを待っている。

Gypsy Funk

同バンドの Adriablue に続く物語のように思える。地中海を望んでの瀟洒で完全な休息のイメージを受けた Adirablue に対して、GyspyFunk は海辺で休んだ翌日、街へ出かけるかのような印象。

もちろんその足取りは鮮やかなステップで、街に繰り出す装いも街にすむ人とは一線を画す洒脱なそれだ。

他者によって作られた高らかな価値を、人はブランドという。けれども今道を行く人は、他人の作った価値観に振り回されるような人ではない。彼らが歩く道、そこに価値が生まれる。まるで天性の、ブランド・メイカー。

Once upon a moon

時の流れが遅くなるかのよう。

成功の要因に余裕は必須であるとよく聞くが、そんな余裕を提供してくれるかのように思う。心から忙しさが追い出される。

時折聞こえるギターのソロとそれに続く協奏。
過ぎ行く時間の楽しみ方はどこかから探すものではなく、自ら見つけるものであり、そうすると見える景色が自ずと楽しめてくるものだ。
そんな風に語りかけられている気がする。

Theme of the Strollin

タンゴのような熱情、ドラマのようなスリル、踊り子のような軽妙さの入り混じる曲。

音数多くリズミカルに、理知的に重ねられるそれは、どこか演劇を鑑賞しているかのような気持ち良さを感じさせる。

観劇が面白いのは、演者がそれぞれの役割を十全に演じているからだ。そこでは中途半端な人生は演じられない。
この曲からもそんな、旋律のパートそれぞれがこの曲における完全な演者と化しているような印象を受ける。

ともすれば慌ただしさをも感じそうなほどに勢いがあるのに、朝令暮改のような不調和さは全く無い。

Casa Batllo

bohemianvoodoo の曲にはどれもセピアなイメージを感じるが、この曲にはそれを特に感じる。

音数の少なさには、なんとなく「オールド」という形容をしたくなる。
さび付くような古び方ではなく、経年により味を増すような、「オールド」だ。

そういえば、ダンディな大人になりたいと思ってダンディズムについて調べたことがあった。曰く、「ダンディズムとはやせ我慢である」。ダンディズムとは自然体の上に醸成されるものではなく、多少の我慢を厭わない努力の先に成るものだと。

しかしどうだろう。ここで醸される「オールド」に我慢の色は無い。それでいてダンディと形容して差し支えないほどに醸成されている。

全く、妬ましい。

Morning Glow

静かでありながら、アップテンポ。疾走しながらも、そこに汗の印象は無い。

朝は全ての始まりだ。いつしか朝は、学校とか仕事とか、僕にとっては面倒なことをもたらす嫌な奴に成っていた。
けれどもそれも捉え方一つだ。視点を変えさえすれば、朝はいつだって爽やかさを取り戻す。

もちろんそれは恣意的なものだ。事実から目を反らせて、自分の好きな風景を思い描いているだけだ。

しかし、それで良いのではないか?
自分には、自分をコントロールする自由がある。

なんてことを思う。

The Moments

とても優しい曲。母のような日常の優しさではなく、聖母のような高潔すぎる優しさでもなく、なんと言うか、絵に描いたような、世界のどこを探しても存在はしないような、御伽噺の中の友人が美しい夕暮れの中で自分を気遣ってくれているような優しさ。

自分の気持ちは、十全な形で他者には伝わらない。他者の気持ちもまた、完全な形で自分が理解することはできない。なぜならそこには見えない感情の壁があって、それを知ることなどできなくて、それを知らないままで相手を理解することなんて出来ないから。

けれどもこの曲の中で、私に寄り添ってくれている誰かは、私を理解し、包み込んでくれている。何もかも受け入れ、優しく抱きとめてくれている。

これはフィクションだ。現実では在り得ない優しさだ。
けれどもフィクションだからこそ、この優しさはここに在り得る。



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