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鈍色とごみ箱


 鈍さに色を見出したことは無いけれども、鈍色と言うのがぴったりなのだろう空が窓から見えたあの日、彼が齧りおえたパンの包装紙をごみ箱に捨てようとして立ち上がり、ごみ箱の前で少し静止して、こう言っていたのを覚えている。

「ごみ箱は、綺麗であるべきなのかな」


 脈絡なく発せられた言葉に私は返す言葉を用意できなかったけれども、彼は別に私の返答を求めている風ではなかったように思う。


 「ここに飲み込まれるものは一様にごみな訳で、それは概念上、汚いと言っていいと思うんだ。じゃあそれを飲み込むこの箱は、汚いのかな」


 私は視線をごみ箱へ移す。一見しても、そのごみ箱は汚いようには見えない。ごみ箱だけではなく、彼の部屋は一般的な男性の部屋よりも綺麗だと言って差し支えない。

 どうしたの、と私は彼に声をかける。しかし口に出して気づいたけれども、どうしたの、というこの言葉の持つ力は、とても小さい。
 相手に話す意思がなければ何物も引き出すことのできないこの言葉は、案の定、彼から説明の言葉を何も引き出さなかった。

 彼はもう少しだけ沈黙した後、そっと扉を閉めるような静かさと寂しさを孕んだような声で呟いた。


「ごみ箱も、綺麗になるべきなのかな。」


 彼の目は、虚ろだとか、光を失っていたとか、そんな感じではなかった。だから私は特に気にせず、食後にいつもするように、ベッドに彼を誘った。

 けれど今になって思えば、その目の色は、私のよく見慣れたものだった。

 朝、文句も言わずに満員電車に揺られる人の目の色。
 夜、煌めくビルの扉から出て暗闇へと消えていく人の目の色。
 
 鈍色。


 聞き間違えでなければ、彼はその箱を、主語として捉えていた。

 それが明確な意図の下に選ばれた言葉だったのかは、今の私には分からない。

 分かるのは、彼がもうここに居ないということだけだ。

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