リリのスープ 第十五章 落ち着かない朝

大会当日の朝は、雨がしとしとと降り続く、空模様の日だった。
リリも、ナディンもこの日のためにと、最高の食材を用意したかったが、そろえられるものには、
限度があり、やはり、いつもの自分たちのスタイルで行こうということになった。

昨晩から、浸しておいた乾燥した月桂樹と数種類のハーブ、そして
漁師の親方たちから贈られた鱈を早朝から煮込んでいた。
いつもどおりに起きてきたナディンは、まだ明け方前の部屋の中で、自分たちにこれからどんなことが起こるかなど
予想もできなかった。

隣町までは、一時間ちょっと。
そこまでは、親方の船の一番若手の人が頼まれて送ってくれることになっていた。
その人が迎えにくる約束の時間までは、まだ三時間ほどあった。

ナディンは、いつもの朝と変わらないように、スプーンを磨いたり、フォークを並べたり、自分たちにできることは、何でもやった。
落ち着かないような日でも、これをやっていると、少しは自分の仕事に誇りを持てるような気がしたのだった。
自分たちは、いつものままで行こう。
そして、この間リリから聞いた衝撃の話は、あまり考えないようにしようとナディンは思った。

いつもと変わらぬことをやっていると、だんだんと気持ちも落ち着いてきた。
州の大会だとはいっても、そんなに人がくるほど有名な大会なのだろうか。
もし、すごく大勢の観客がくるようなところだったら?と想像しただけで、ナディンは足が震えてくるようだった。
まさか、そんなところに、自分たちのような素人が出るなんて、本当にばかげている。
ましてや、その大会で、優勝しようなんて正気の沙汰ではないだろう。
リリは、いつものように大口をたたいてしまったけれど、内心彼女も今日の日を迎えて怖気づいているのではないだろうかと思った。

キッチンのいるリリの様子をみると、黙って寸胴の大なべを見つめながらゆっくり灰汁取りをしている。

漁師の親方が、この日のためにと、自分たちが祭りや大きな行事のときに使う寸胴を貸してくれたのだった。
リリは、大きな寸胴の前にたち、いつもと変わらぬように、ゆっくりとした調子で、鍋の縁に浮いている灰汁を取っていた。

ナディンはその様子をみながら、自分もまた仕事にかかろうと思った。
いつもと変わらぬことが、何よりも今の自分たちには、必要なことだった。

リリは、ゆっくり灰汁を取り終わると、また蓋をしめて、しばらくコンロから離れた。
巻いていたエプロンを取ると、ふうというように椅子に腰掛けて眼をつむった。

二人とも、緊張のためにか、眠れなかった。
そして、いつもよりも早くに起きて仕込をしなければいけなかったので、やっと腰を下ろしたとき、リリの口からも
ため息が漏れた。


「ふう。開始は何時からだったかしらね」

ナディンも皿を拭く手をそのままに、

「確か11時半だったかしら」


リリは、空中をみあげながら、時間をつぶやくと、何かを考えているように見えた。
ナディンは、皿を持ちながら、忙しそうにしつつも、自分たちが、本当は未知の世界のこれから起こることへの緊張に知らぬふりをしようとしているのがわかった。


リリは、いったん鍋を煮込んでしまうとそれほど付きっ切りでなくてもいいので、部屋に敷いてあるベッドにゴロンと横になった。

リリは、眼を瞑りながら少し仮眠でもとろうかと思ったが、眠れそうにも無かった。
朝早く起きて眠い気持ちもあったが、これからどんなことが起こるのだろうかと、ワクワクして落ち着かなかったのだった。


天井を見つめながら、リリは、黙って感慨深げに、静かな室内に響く鍋の音を聞いていた。

ナディンは、皿を拭き終わるとナプキンやら、もっていくものを大きな籠に入れた。

ベッドのリリをみると、小さな寝息を立てていた。

10分ばかり寝かせてあげようと思った。


ナディンは、拭いていた皿をしまうと、フキンをたたみながら、自分も椅子にもたれて
うとうとしはじめた。

鍋がぐつぐつ煮える音と、部屋を湿らせている湯気が、空気に充満していた。
まだ、早朝の静かな時間の中で、少しでもホッとしたいと思った。

ナディンは、皿や、スプーンやら、もって行くものが入れられたバケットの荷物を
眺めながら、ぼんやりと、自分を振り返っていた。

ここに来ようと思って、自分は来たわけではなかった。
このたびは、友人リリのために、自分が付き添ってやってきた旅だった。

普段自分は、アパートで、町の大きな会社から委託を受けてやっているデザインの仕事で生計をたてていた。
自分のことは、なんでもこなして、この年になるまで結婚もせずにデザインの腕一本で食べていくつもりでがんばってきた。
いま、こうしてその腕は、皿を磨いている。
元の生活にもどれば、またデスクに向かいデザインの仕事を行うだけだった。
今回の旅で、穴が開く分は、先方の会社もわかってくれ、バカンスにいく自分を快く送り出してくれた。
また戻ったときには、休んでいた分を挽回する気持ちで、励もう。
そう思っていたというのに。

ここにきてから、自分の中で何か少しずつ違うことが芽生えていた。
何か新しいことをやりたいだとか、デザインの仕事を辞めるということではない。
デザインは、大学のときからやっているし、今でも好きな仕事だ。
大変なことも多いけれど。

しかし、いまこうして、スープを売ったり、やったことない皿磨きをしたりしている自分の中に、
こみ上げてくるものがあった。
一人で机に向かっているときには、ないものだった。

ものを作る喜びだった。
それを目の前の人が、美味しいといって食べてくれる。
リリが作ったスープを、自分が売ったり、その準備をしたりする、
ただそれだけなのに、今まで一人でがんばっていた時の重圧とは違い、
とても簡単で優しくて、何より、目の前ですぐ現金化する仕組みが楽しいと思った。
こんな仕事があるのかと思った。
普段、カフェにいくことはあっても、ウェイトレスのことまで、見ようとしない。
しかも、自分は、ただのウェイトレスではなく、すべて自分たちでまかなっているお店を経営しているのと同じだった。

お客さんの喜ぶ顔や、美味しいといってくれる言葉、それらがダイレクトに伝わってきて、そのまま報酬になる。

いままでの人生でなら、絶対にやらないことだった。
ましてや、あの土砂災害がなかったら、リリはスープを作ろうとは思わなかっただろうし、
始めはこんな店舗もない場所で、裏山から野草をとってきてスープ作りをするなどと、正気の沙汰とは思えなかった。

そんな地を這うような駆け出しで始めた自分たちの商売で、いま、まがいなりにも、暮らせている。
不思議でならないことの方が多かったが、ナディンは、これらの新しい体験が、自分の細胞に何かを呼応させているように感じていた。

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