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3、生きづらさって何だろう -島旅日記ー

子供の頃から、わたしは、感受性が強い女の子だった。
小学校の低学年くらいまでは、自分の感じる素敵なもののこと以外は外の世界と捉え、誰がどうしたとか、物欲や、お金や外の世界のことにあまり興味がなかった。


しつけも言われたことも破ることもしないけれど、いつも黙って一人で、絵を描いている病弱な子だった。
大きくなってからも、すぐに体調を崩すからという理由で、ポテトチップスとかおやつなんて食べられなかった。
故郷を離れ上京する年まで、食べたいものが食べられない、病気勝ちだっただけに、みんなと同じものを好きなように食べられるようになった今だから言えるけれど、当時は人生が灰色だった。

 自分が感じてきた、生きづらさについて、競争社会や、学歴社会の波、偏差値や、成績で測られてしまう世界にいたから、他人と比べて優劣を感じるようになってしまって、社会の仕組み、枠組みに生きづらさを感じるようになってしまった、すなわち文部省の教育方式にはもはや、限界がある。
なんて、言い分も若干ある。

けれど、根本的にはもっと違うような気がしている。

 感受性が豊かというと、聞こえはいいが、それの正体は、人と接している時間、そこで感じることが人よりも多いということだ。

時計でいうと、人が物事を淡々と受け止めているのをデジタルとすれば、1分ごと過ぎるたびに、人よりも60コンマも感じているというビット数の高いアナログ状態。
 感が鋭く、感じなくいいところも感じてしまって、寝込んだりヒイヒイ言っているから本人は真剣だが、周りはよくわからなくて祈祷師を呼んでお祓いをしてもらったりと大変だったと想う。


 こういうやっかいな部分は、いいのかわかんないようなところが、霊感の強かった祖母の遺伝であるのかなあと想ったりもする。女系家族である我が家では、見えない世界の類の話が当たり前だった。祖母も四国で滝に打たれたり修行したりしていたことがある。
 かといって、わたしの感は、霊感とはちょっと違う感じだ。まったくお化けが見えない。家族の女子の中でわたしくらいだ。
 これは、臆病でビビリなわたしに神様が考慮してくれたんだと想っている。
 学生の頃から、なんというのかお化けは見えないけれど、なんとなく自分に必要なことや決断のときには、支えてくれる声とか見えないもの存在が近くにいるっていう感覚はあった。だからよく見えないものとおしゃべりしていた。

二十代からしばらく都会に10年以上住んだけれど、人が多く入り乱れて、電波も多いところでは、暮らすのが無理と想った。けど、人には説明しずらい感覚を自分でもわかんなくて、間違っている、ダメだと想うようになっていき、精神科にもいってみたりした。
いまにして想えば、病院いけば、わたしみたいなのは何かしら病名がつく。
けれど、どんなに薬や、カウンセリング、心理療法をやっても、自分でもセラピー、カウンセリング、ヒーリングを学ぶようになってからも、生きることの息苦しさは変わらなかった。
だんだんに、人社会が無理、と想うようになった。
 人社会で生きるのに自分の感受性は邪魔で敵でしかなかった。感受性は自分の生きづらさもあんまり変わらなかった。どんなに、セラピーやカウンセリングの中身を学んでいっても、ヒーリングができるようになっていっても感受性はなくなりはしなかった。むしろさえてしまう。
今にして想えば、自分があまりにも自分をわかっていなかった。人よりも自分が劣っていると感じたり、足りないという思いばかりがあって、わからなかったんだが。

ああ、自分はちょっと変わってるんだな。
と気づくまで、ずいぶんかかったっていう話だ。

 見えない声とのやりとりは、地元にいるときからで、年々増していった。
バイトの面接にいった夜とか、
「ん~どっちのバイトの方がいいと思う?花屋か、福祉施設か」
とわたしが聞くと、
「書きなさい」
って声が返ってくる。
「え!どっちも採用されたけど、どっちか決めなきゃいけないのよ。どっちがいいってこと?」
声、
「書きなさい」
「は?書きなさいって、何?わかんない。もういいよ」
「お前は、自分を疑いすぎている。書きなさい」
「もう、わかんないよ」
と言って、わたしもふて寝した。結局バイトはどっちも断った。
 人と喧嘩したり、うまくいかなかったとき、「あ~もうあたし嫌だ。あいつムカつく。どうしたらいいと思う?」
声。
「書きなさい」
「は?また?何それ?なんであたしかかなきゃないの?何書けってこと?」
「自分を偽るのをやめなさい」
「何書いたらいんだが、わかんないよ。せっかくきいてんのに!」
書け、書けって声が言ってくるけど、どうしたらいんだよ。そんな日々を送っていた。たしかに、ちょこちょこ書いたりもしていたが、何をどうやって?っていうのは応えてくれない。
時々、腐っていると見えない声に怒られたりもする。
「ばかもの!自分を疑う奴がどこにおる!」
「だって、わかんないよ!毎日家事育児で、しかも吹雪で外出れないし。こんな毎日じゃ腐っちゃうにきまってるじゃん!」


日本海の冬をなめるな。下から吹く吹雪とアイスバーンで外出も命がけだ。
あたしも引かない。ガツガツ言い争いをする。
「じゃ、こんなダラダラ家で腐ってる毎日でも意味があるってこと?わかんないよ。楽しくないしさ。ダラダラ家いると、お酒飲んじゃうし、これじゃアル中になっちゃうよ。」
すると、向こうも言い返す。
「お前にまだ見えていないだけなのだ」
「だったら、教えてよ!楽しくなって生きづらいのがなくなる方法をさ!」


こういう喧嘩?まがいなときは、お互い喋るのも疲れるまで、徹底的に話す。時々、向こうも選手交代したりもするが、何時間もガチ討論が終わると、いつもグッタリ。笑
 こんなことを、口に出してもいえないので、友達の前では、普通のフリをして過ごす毎日。
けど、断然周りと会話が合わない。ママ友というのも、自分には合わないってことがわかった。
 ずっと迷っていた。
 わたしは、どうやって生きていったらいいのかこの地上で。その答えを求めていた。

人によって、生きづらさは違う。
けど、それぞれ持っているその人に眠る力の中には、人に理解されないものや、本人ですらわからないものもある。
言わば、天に与えられた魔法。
その魔法は、人社会の判断でいうと、天の采配と違うときがある。すっごく変な人。
そんな自分が嫌いで、あたしなんてと思っちゃう日々。自信もない。
 みんな同じに、平らに教育しよう、これが、いいこと、これが悪いこと、そんな常識はクソの役にもたたないとわかった。だって、一日で変わってしまうこともあるもの。
時代を動かしてきたのは、一握りの変人だというのに。

 わたしが気に入っている沖縄の風土に、感高い人、神んちゅなどという言い方がある。
沖縄人はみんなが感高い人っていうことではないが、ユタもいるし、そういう世界のことに対して敬謙がある人が多い。
 そうすると、やったー!沖縄は、病名をつけるんじゃなく、自分を受け入れてくれている!と勘違いしてしまう、笑
 テーゲーで単純な感じが、わたしと沖縄はあっている。
 自分なりの生き方を確信するために、島旅をしていると思う。
 人のことばかり見て比べて、自分を信じる力が少なかったから。

 こうして、旅して、そこで、わたしに与えられているものが、多大だとわかった。
 自分が否定していたものが、実は自分を活かすギフトのようなものだった。
 愛されていないんじゃなく、余りある愛の中で、ただもがいてるだけだったのだ。
 そういう自分のことを好きになれないだけだったのだ。
 細かさや、しなやかさは、わたしを殺さない。わたしの中の愛は、なくならない。
 ただ、そのままの自分を受け入れるだけ。これが一番難関で、本当は優しいのだ。

自分を生きよう、
それを確信しに今日まで来たのだと想う。 

「感受性を活かすことをしよう」それに気づいたとき、書き始めるようになった。 


 

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