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世界放埓日記

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記事一覧

結婚生活。

昨年の暮れにひっそりと結婚を致し、さりげなく居を海辺に移して早一ヶ月半。愛の綱引きが言葉を生み出し、月の満ち欠けが愛を増幅させると思っていたから、新婚生活の中で生まれる言葉は夫に伝えることはあっても第三者に公開するつもりはなかった。
けれど、日に日に夫が好きになる。だから、その気持の発露はやはり行うことになる。

預けていた楽器を引き取りに、夫と楽器工房へ行った。
いつもの如く私と工房主が楽器の状

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幸せになるには

私「○○さん(母)と離れて暮らすと色々不便だよね!イッセイミヤケ借りれないし」
母「ほかに不便なことないの?」
私「なに?」
母「私の資料もすぐに出てこないし、CDも借りれないんだよ!」
私「不便だー!!」
多分もっと根本的なところ忘れてるのですが、そんな母子なのです。

今までにも何度も一人暮らしのタイミングはありました。
海外で暮らしていたこともあるし、それならそれで良い距離感を見つけられた気

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東京盆踊り

生鮮食品売り場のように冷え切った銀色の乗り物の中に入り込むと、一斉に人の目がこちらを向いたので、私は思わず身をすくめました。
知り合いだろうかと辺りを見回しても、そこには誰も見知った顔がないのです。そもそも人が一人もおらぬのです。
不躾な視線を一方的に感じる不愉快さに耐えかね車内をぐるりと睨め回すと、至る所からこちらに視線を寄越す顔の主は中吊り広告だということがわかりました。
一方的な目線に晒され

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蜃気楼の恋人

蜃気楼の恋人

砂漠に吹く風は、日没と共に柔らかく変化する。
夕暮れに青白く浮かび上がるモスクは、あたかもその身に太陽の熱を溜めていないかのように白く輝いていた。
かといって、冷たい印象を受けないのは、優美な曲線と照明の加減なのだろう。
蜃気楼の残滓から生まれいずる確固たる楼閣は、砂を孕みちりちりとした風を伴って、触れたら和三盆のように崩れてしまいそうに繊細だった。
唐草模様の刻まれた天井を見上げながら、花模様に

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潮騒の恋人

潮騒の恋人

男は海が七つあることを知らなかった。それなのにこれ程に海に愛されている。

「君の故郷のトーキョーには、海はあるのかい」と彼は尋ねた。
目の前には、彼の生まれ育った小さな街をずっと見守り続けてきた海が、日の名残りを受けて僅かに朱く染まっている。大航海時代、貿易港として栄えた街だ。旧市街の赤みのかかった煉瓦で作られた古い建物は、海に面して所狭しとひしめき合っている。
「あるわよ」と答えながら、東京の

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人もペンギンも

強風が横から吹き付け、銀色の車体を大きく揺らしました。窓の外を覗こうにも背後の窓の向こうに広がるのは暗い闇。その向こう側に目を凝らそうとしても、叩きつけるような雨の影に視界は遮られるばかりで、外の様子を窺い知る手段は絶たれております。
気詰まりな沈黙が湿度の高い車内を底から満たしている一方で、頭上に吊るされた広告の中ではモデルが「全身脱毛今なら月額9800円」などと微笑みながら真っ白な蛍光灯によっ

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脚と頭は使いよう

月に二度ほどふらっと恋人のもとに訪う私を、彼はどのように感じているのでしょうか。
知り合ってから干支は一周しました。付き合ってからワールドカップは2回開催されました。けれど、私達は一向に一緒に暮らそうとしませんし、結婚するという話題も全く会話に登らないのです。

深夜にテレビを点けて寝そべりながらサッカー観戦をする恋人に
「ボールを足で蹴るなんてお行儀が悪い」
と言ったら、彼は
「ヒールの高い靴を

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露草忌

私は父親の愛し方を知らない。
その事実は日常の背後に薄い靄を被せるように存在していて、それに気がつく度に心に陰りが生まれる。

幼い私の誕生日に、彼は手作りのクマのぬいぐるみを作ってくれた。
リバティ模様のそのクマを私はたいそう可愛がっていた。やがて訪れた思春期の真夜中、父と母が口論をしているのを壁越しに感じた時、跳ね上がりそうになる心臓の上にそのクマを載せて眠りに落ちた。
翌日、母は口論の理由を

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夜空に星座を描くように

これは私の知識がいつもどのように広がっていくのか、その過程を示す指標となる文章です。
私は常日頃から進むべき道、選び取る事柄に迷った時、過去の自分を思い浮かべ、少女だった頃の彼女に恥じない生き方を選び取ってきました。
それを聞いた人は「自我が強いね」とか「自分が好きなのね」と言います。
当然です。私は過去の自分の集積です。彼女たちが積み重ねてきたものの上に私は立っていて、そして未来の私のために私も

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聖俗二元論跳躍

かつて日本の伝統的な世界観を「ハレとケ(非日常と日常)」と名付けた学者がおりましたが、音楽家なんてものは常にハレの状態にいるか、もしくはそれに向けて猪突猛進、ケなんて蹴散らかして生きているものですから、ハレの状態で興奮しても、それが制御不能の状態になって外に溢れ出るなんてことはめったにないのです。

「こんにちは、君は○○の娘さんかな」
そう声をかけてきたのは全く知らない初老の男性でしたが、父の名

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海を照らす光

正午を過ぎた都内の公園、まるでだだっ広い夢の中に浮いているような気分になりながら大学まで歩いていると、見知った顔に何人も出会うのです。

大学を卒業してから久しく会っていなかった先生や、留学していたはずの先輩、そういった彼らとすれ違い、驚いたり笑ったりしながら手を振り合い振り向くと、そこにはかつての同級生がおりました。

「今就職活動をしているんだ」
そういって彼は重たそうな鞄を持ち直しました。

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プルーストとアシマン

プルーストとアシマン

「両思い」って単語を使うことに、いつから恥ずかしさを覚えるようになってしまったのでしょう。
「恋人」「彼」といった言葉なら臆面もなく口に出せるのに、「両思い」って単語を舌先に乗せるだけで今の私は体の芯からきゅっと締め付けられるのです。
映画「君の名前で僕を呼んで」は平日にもかかわらず座席の多くが埋まっていました。
ティーンの頃に、他者によって糊を解きほぐされた湿ったシーツの感触を知った人なら、きっ

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生きる準備

日本で生活をするために行わなくてはいけない煩雑な手続きを終えた私が次に取り掛かったのは、洋服の洗濯と、化粧品の選別だった。

ほんの数年日本を離れていただけとはいえ、私の風貌は、街を歩く人のそれから少しだけずれた色彩を持っていた。
欧米ではアイデンティティとなる艶のある黒髪は、電車の蛍光灯の下では重たく湿って見えたし、
欧米に行ったばかりの時に毎日ベースメイクをしているのが自分だけであることに気が

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me tooなんてだいっきらい

かつて私の心音を聴こうとした医師は、衣服をたくし上げる私に向かって

「それでは診察ができない。もっとまくり上げろ」と言った。

留学する数週間前のことだった。提出しなくてはならない健康診断書の期限が差し迫った日、クリニックの除湿機は低い音を立て可動していた。

「これくらいまくれば十分に診察できるはずです。どうぞ」

最近の健康診断では衣類の上から行う医師もいる。その時私は下着を脱ぎ、診察用の衣

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