生きる準備

日本で生活をするために行わなくてはいけない煩雑な手続きを終えた私が次に取り掛かったのは、洋服の洗濯と、化粧品の選別だった。

ほんの数年日本を離れていただけとはいえ、私の風貌は、街を歩く人のそれから少しだけずれた色彩を持っていた。
欧米ではアイデンティティとなる艶のある黒髪は、電車の蛍光灯の下では重たく湿って見えたし、
欧米に行ったばかりの時に毎日ベースメイクをしているのが自分だけであることに気がついた時に捨ててしまったリキッドタイプのファンデーションは、言いたいことを胸のうちに隠すために必要な紗幕なのだと思いだした。

硬水でがしがし洗っていたシャツは、なんとなく硬さを帯び、
薄汚れたトラムの座席と触れ合っていたジーンズはみすぼらしく思え、
晴れ間の殆ど見えない曇天の空の下で私を守ってくれていたダウンコートは、融雪剤のせいでところどころ白くなっていた。

今度の休日は、デパートに寄って化粧品を買おう。
満員電車で、目の前の座席で化粧を始めた女性を見下ろしながら、私はそう決心した。
窓ガラスは結露で曇っている。
自分の汗と香水の混じった香りが鼻孔をくすぐった。
香水も控えなくては。
コートの重さが肩にのしかかるのを感じた。

いくつかの決心を携え向かったデパートの化粧品売り場で、私はついぞ何も買えなかった。
喧騒がつめたい壁や床に当たり、粉々に砕けて私の上に降り注ぐ。
つるつると白く発光するそのフロアには、自分のための化粧品が何ひとつ売ってなかったからだ。
「春を先どり」
「今年のはやり」
というキャッチコピーと共に映し出されたモデルたちがこちらを睨めつけている。
その目元や口元に載せられた色味は、自分の日に焼けた肌とも、意思を伝えるのに有効なきれいな弧を描く眉とも、そぐわないように思えた。

肩を落とし、それでもイッセイミヤケを冷やかそうとエスカレータに乗り込む。途中階を抜ける時、靴売り場が目についた。
蒐集癖のある私が愛する代物、それは靴だ。
そういえば向こうで買った靴、裏張りしないと日本で履けない。
私は下りのエスカレーターに飛び乗り、家路を急いだ。

「この靴は正直に申し上げて、裏張りをするべきではないと思います。せっかく美しいこの造形が壊れてしまう」
修理屋の男性は私の持ち込んだ靴を検分するとそう答えた。

ラルフローレンのウェッジソールのサンダルだった。
張りのある水色のシャンタンが爪先を覆い、同色のリボンが甲で交差するそのデザインの靴を、私は帰国する最後の日に空港で手に入れた。
靴の底をじっくり眺めたのは荷解きが済んだ数日後だった。ブレードが重なるデザインのそのソールは、欧米の靴によくあるデザインで、裏に何も補強が無かった。

「このままでは日本の道路で履くことは出来ないわ。裏張りしないと汚れてしまう」
私はそう答える。もしかしたら、法外な値段を提示されるかも。そういう考えも頭をよぎったが、気にしないことにする。
この数日、私はこの国に馴染むように自分を作りかえようとしたのだ。
ここで門前払いを喰らっていては、まだこの国に受け入れられたという証明にならない。そんな気分だった。

「こんなに美しい靴に僕は手を加えたくありません。ウェッジソールの下にゴムを貼ることは簡単ですが、それにより見た目が損なわれてしまうことを、あなたは良しとするのですか」

男性の手は優しく靴を撫でた。
彼の手は油で黒ずんでいたし、腕にはおばさんのつけるようなアームカバーがはまっていて、全然かっこよくなかった。
でもその姿は私の知るかっこいい人達の持つ輝きと同じもので縁取られていた。

「ありがとう。わかった、このまま大切に履く」
「うん、雨が降ったらタクシーに乗ればいいし、足がつらいなら男性にエスコートして貰えばいい」
彼はにこりともせずにそう答えた。
彼を見上げると、向こうも私を見返した。
少し茶のかかった瞳が、私の黒髪をなぞるのがわかった。
その視線は私の周りに生きる隙間をもたらす。
もう大丈夫、私は私のまま生きていける。

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八潮七瀬

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