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グレーのまま、どこまで考えつづけるか


Twitterやブログのコメント欄などを眺めれば、攻撃的・批判的な言葉を目にするのが当たり前になった。誰でも気軽に人の行動・言動に意見を言えるようになり、タイムラインは誰かの正義の表明で溢れている。


「この問題、どうなんだろう?」と一つのニュースに疑問を抱いた時、すでに詳細情報が個人から投稿され更新されていることは多く、その出来事に対しての誰かの考察も瞬く間に上げられていく。「この問題、どうなんだろう?」という小さな疑問を深めて思考する間もなくそのニュースは過去のフォルダに仕舞われ、また新しいニュースがやってくる。


すでに多くのコメントが寄せられているニュースには、「善い」「悪い」と自分も含めてすぐにジャッジしてしまいたくなるけれど、「善い」「悪い」で情報を片付けずに、曖昧な、グレーの中に一定時間置いておくことがとても大切だと思っている。「なぜこの出来事は起きたのか。」「この出来事の次にはどんなことが起きると予想できるのか。」「なぜこのニュースに対して、多くの人は同じ・似たような意見を持つのか。」そのニュースをグレーの中に置いておく時間が長ければ長いほど、そのニュースへ多くの問いを立てることができ、自分の考えを深めていくことができる。


「新しい」「先進的」「革新的」と言われている人や情報に、疑問を持って考えることをせずに賛同してしまうのは、効率が悪いと分かっていながらも改善せずに旧来のやり方をつづけている人とあまり変わらないと私は感じている。意識的に考える時間をつくらず、自分の周りで流れている空気に身を任せている点で。


スマホ一台あればいくらでも情報収集ができてしまう今は、意識してつくっておかないと「自分で考える時間」がなくなり、流れてくる情報のままに行動してしまう。なので効率が悪くとも、賛同も反対もせずグレーの立ち位置で考えることが、結果として小さなブレーキとなって事故を回避できるのではないだろうか。事故を起こせば自分だけではなく他の人も傷つけることになる。


自分の「善い」「悪い」のジャッジが、人を傷つけるリスクを背負う覚悟を持ったものなのか、一度グレーの中で立ち止まり、考えることが、今私には必要だと思っている。

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