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おそれを見たあとの在り方を提案すること


人はきわめて残忍な行為や犯罪を記録した写真を見る義務を感じることができる。    ースーザン・ソンタグ「他者の苦痛へのまなざし」


テレビや新聞が残酷な殺人事件、また悪質な人や会社が誰かを傷つけたり騙したりした事件を多く報道するのは、社会にどのような効果、影響をおよぼすと予想して、また期待しているのだろうか。


残酷な事件・犯罪が二度と起きないように、多くの人に知らせて問題提起する。これが一番正しい答えのような気がする。けれどテレビや新聞の報道の結果、その事件の被害者であった「当事者」の人たちが、報道によって助けられたのだろうか。


当事者の人たちを助けたり、必要な支援を渡すのは、その報道を「見た」人たちだ。そして報道を見たすべての人が当事者の人たちに何かをすることはできない。なにもできない人も多くいる。


見たくない映像が画面に流れた時、テレビはチャンネルを変えることができ、スマホやパソコンはスライドしたりタブを消したりして画面を消すことができる。画面に映された問題は解決していなくても、自分の視界の外に追いやることができる。


残酷な事件・犯罪から目を逸らさずに見つめつづけることで、自分の行動は変わるのだろうか?


自分の中に蓄積された情報によって行動は変わる。なので恐怖を感じる事件や犯罪の報道をすることにも意味はある。けれど本当に必要とされているのは、その事件・犯罪が二度と起きないような解決策を提案する場をつくって報道することではないだろうか。


ネガティブなニュースが報道された時、多くの人が「怖い」という感情をもつ。自分も同じ目に遭いたくないから気を付けなければ、と考えると思う。報道を見たあとに解決策を考えて実行に移す人はほとんどいない。


同じような事件・犯罪を防止するためにも、その報道を見た人が当事者である被害者の人たちをサポートする方法、また犯罪を抑止する方法を考える、つまり事件・犯罪の「視聴者」から解決を試みる「当事者」へとなれる情報までを提供することが必要なのかもしれない。


現実に起きている事件・犯罪は他人事ではない。自分や周りの人たちを守るためにも当事者である意識をもつ。自分も当事者だという自覚をもつ人を増やすことが、多くの問題を解決する一つの糸口だと思う。


問題提起だけではなく、その報道を見た視聴者としての在り方を提案することも、たくさんの情報を提供する人たちの仕事なのではないだろうか。報道の自由というけれど、自由であるためには他者に迷惑をかけたり傷つけたりしてはいけないことが大前提だ。その前提を守ることができない報道は、無闇に人を傷つけている。


その情報を流した「先」に何があるのか。私たちは未来を見据えた広い視野で、本当に必要とされる情報とは何なのか考え、提供していかなければいけないと思う。








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