見出し画像

勝手に1日1推し 192日目 「みちのくいとしい仏たち」

「みちのくいとしい仏たち」東京ステーションギャラリー     芸術

You Are So Cute Nice Face Come on Yaeh♪♪♪ Chaiです。N.E.Oです。
ほんまにネオかわいい仏さまたちでした。

会期ギリギリ駆け込み鑑賞に成功しました!行けて良かったですぅ。ほこほこほっこり優しい気持ちになりしました。

地域の人々に寄り添い作られ、祀られた神様、仏様たち。
政治的意味合いや権力の象徴、威厳の保持なんかではなく、北東北に暮らす人々の不安や心配、辛さや悲しさに耳を傾け、具現化された神様、仏様たちなんですね。破壊神不動明王や地獄の閻魔様でさえもユーモラスでとても優しく包みこんでくれます。

仏師と呼ばれる専門の彫師が創作したものではなく、神様や仏様が必要な各地域で名もなき(ある場合もある)誰かが彫った像、それが「民間仏」。今回の展覧会で大集合した神像、仏像たちです。
現在の神像、仏像の価値として挙げられる芸術の1つとしてどのようにみなされているかは分からないけれど、その存在意義の大きさは計り知れないものがあります。「信仰」とは何か、を考えさせられます。今もなお地域に根差し、人々を見守ってくれている。人々と神様、仏様、思い思われ。なんて素晴らしい関係なんでしょう。

展示される像たちと同様、それらに添えられたキャプションもアカデミックで堅苦しいものではなく、コミカルで親しみがあって、とことん寄り添いの姿勢が貫かれていたのも素敵だなあと思いました。
「怒髪天のつもり」だとか「ファンタスティック」だとか「ニコニコ仏」だとか「プリプリしてる」だとか、そもそも「ブイブイいわせる」ってテーマ何よ?!ってなります・・・みうらじゅんさん顔負けのくだけた解説。
でもこのカジュアルさからは、本来、信仰って仰々しいものではなくて一番近くて親しい存在なんだって伝わってきます。

クライアントが主に武士な彫像とは絶対的に違います!
見よう見まねだったり、独自のスタイルだったり、地域のために造形された像たちは、木を削っただけだったり、衣の躍動まで感じられたり、絵付けが不釣り合いだったりして、素朴で愛おしいだけじゃなくて、闊達さに惚れ惚れしちゃうんだよな~。
雑って言えば雑とも言える像もあるけれど「一刻も早く祈りたい!」とか「沢山ないとみんなが祈れない!」とか、作られる過程に諸事情がありそうで、背景に思いを馳せるとより感慨深いものがあります。
「六観音立像」なんて、一本造であの大きさであのクオリティ。あっぱれ!

まずはオリジナリティ溢れるチャーミングなご尊顔に注目です!
「え?錯乱坊?(「うる星やつら」)」って二度見しちゃう像しばしば。
「達磨像」は、はちまきしたドラえもん?ってなるし。かわいいし。
獅子が踏みつけられてるところは、頭(「千と千尋の神隠し」)の一番下(つぶれたとこ)じゃんか。
毘沙門天×獅子帯、最高!
ほんと、どなた様もネオかわいかったです。

メインビジュアルの「山神像」(トップ画像参照)は、見ての通り本当にかわいいです。ビデオで林業に携わる方が「お祈りしてから山に入るとそれだけで安心するし、実際救われた」っておっしゃってて、時代を超えずっと自然と人間を見守ってくれる存在なんだなって、つくづくその大切さを感じました。

「蔵前神騎馬像」。藤田嗣治ばりの前髪が可愛い馬でした~。手綱として何重にもまかれた細綱が現在まで残っているなんてすごい!江戸の細綱ですって。

前述しましたが「不動明王像」も怖くないし「十王像」たちも全然怖くない!「閻魔像」だってへっちゃらよ。「鬼形像」でさえ親近感。
護摩行を耐え抜いて真っ黒でまん丸な、カラ威張りポーズが尊い「不動明王像」のなんと健気で甲斐甲斐しいことか。

船大工によって作られた「多聞天立像」は、海に関するあらゆる願いを一挙に背負わされて明らかにキャパオーバー気味なのとか見ると「神様(仏様?)は大変やな」って、初詣でついつい願いすぎちゃう私自身を自戒しつつも思わず笑っちゃいました!

ゆるく可愛らしい親しみのある像たちからは、幅広い解釈が許され、教養や条件なんかも必要なくて、どんな人でもいつでもウェルカムな安心感が得られるんですよね、きっと。だから人々からも慕われる。そのループが現世に至る理由なんでしょうね。

唯一、民間仏の作り手として名が知られているのが、右衛門四良(えもんしろう)という大工さんです。仏師じゃなくて大工なんです。彼は何体もの仏像、神像を作り、今に残されています!

「地蔵菩薩立像」が何体も展示されていたけれど、そのどれも同じじゃないんです。
各家庭に配られた(?)小ぶりの像17体から(小舘さんって方が方々回って集めたそうです、ナイス!)、子供がおなかを空かせないようにおっぱいをあげている乳房付きのものまでバリエーションにとんでいます。

つまりこれって、地蔵はこうあるべきっていう正しさじゃなくて、人々の望みを叶えた形に作り上げたってことですよね(他の民間仏にもみられる)。この親身な寄り添い、寛容さ、これこそが「民間仏」の魅力であり、「日本美術」(と言っていいか分かりませんが)の包容力なんだろうなあと思いました。
あと、めっさかわいい「童子跪座像」。「ごめんなさい」の気持ちをより伝えたるために(と解釈しました)揺らせるようにおきあがりこぼしのように作られていたんです。コロンとしてて、表情も柔らかくてめちゃくちゃ愛らしいんだよなあ。何したとしてもこんな風に謝られたら絶対許しちゃうっしょ。

巨匠(?)円空の像も見れるという驚きもありつつ、締めくくりの一体、巨神兵のような「菩薩立像」。純粋に祈りの対象として人々の思いを受け止めたであろうそのお姿はシンプルで、正に「民間仏」でございました!

とまぁ、言いたいこと山積み、語りつくせない良さ爆裂だったんですが、須藤弘敏さんってすげ!ってなります。「民間仏」しかり、ネーミングセンスが抜群だし、解釈も素敵。何より「民間仏」という存在を知ることが出来たこと、本当に嬉しく思います!感謝です。

あと、最後にもう1つ。東京ステーションギャラリーって美術館自体が美しくて、とにかくレンガ壁が最高!企画展もニッチで大好きです。

ということで、推します。

追伸:チェリー(錯乱坊)フェイスの代表格がフォトスポットにおりましたんで撮りました。貼っときます!傾きも愛おしいぃ。

菩薩座像

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?