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自己中な優しさを見せてよ

周囲には「優しい人」がたくさんいるし、私も日々そのような人に助けられている。

ただ最近、何処と無く違和感のある「優しさ」に触れる経験が続いて、はて優しさとは何だろうかと考えるようになった。

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教師と生徒の禁断の恋愛模様を描いたドラマ「中学聖日記」の中で、黒岩くん(中学生)の放ったこの言葉が忘れられない。

俺はただ先生と一緒に楽しくなったり
優しくしたりしたいだけなのに。


「好き」ではなく、「優しくしたい」という表現。


相手にも自分を好いてもらいたいから優しくしたいのではなく、ただただ優しくしたい。

「優しくすること」が一つの目的として確立している心情に、えも言われぬ尊さを感じた。

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どうも最近、「それが正解だから」「そうするのがいい人だから」で実行される(ように見える)優しさを受け取ることが多い。黒岩くんのように「優しくしたいから優しくする」のではなく、完全に優しさが手段と化してしまっている状態だ。

そもそも優しくない人に比べたら、優しい方がずっと良いのは言うまでもないし、実際その「優しさ」でことがうまく運んだりもしている。

ただ、どこか居心地の悪さを感じてしまうのも事実だ。

あなたの優しさの返礼として私は何をすべきか、そんなことに意識が向いて、気づけば肩がガチガチに凝り固まっている。優しさの裏に期待された「返礼」ないし「結果」を模索せねば、と考えてしまうのだ。



思うに、
「優しくしたいから優しくする」
このくらい、優しさは本来自己中心的なものだ。
というか、そういうものであってほしい。

「いらなかったらごめんね」「勢い余ってごめんね」
と内心断ってしまうくらいでちょうど良い。

「優しさ」なんてものは常に「おせっかい」と紙一重で、
真に相手に欲されているかどうかは蓋を開けてみるまでわからない。

その不確実性の責任はどこかに押し付けるのではなく、勝手に優しくした自分自身で引き受けるべきだ。「良かれと思って」のようなダサい言い訳は一生口にしちゃいけない。そんな風に思う。


つまり、世間一般に共有された「優しい言動」シリーズから選びとられた一挙一動なんて優しさでもなんでもないから、ただ自分の内から湧き出る欲求に従って、結果的に「優しく」ありたい。




最後に、最近読んだ小説
川上弘美『センセイの鞄』
から、お気に入りの一節を引用してこのnoteを締めようと思う。


「センセイの場合、優しみは公平であろうとする精神から出づるように見えた。わたしに優しくしよう、というのではなく、わたしの意見に先入観なく耳を傾けよう、という教師的態度から優しさが生まれてくる。ただ優しくされるよりも、これは数段気持ちのいいことだった。」








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