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「愛がなんだ」東大上映会主催者レポート

9月5日に東京大学先端技術研究センター内ENEOSホールにて、同センター熊谷研究室主催で「愛がなんだ」上映会・トークセッションを行いました。当日は東大生を中心に一般の方も含めて約200名が参加し、トークセッションでは「愛がなんだ」原作者の角田光代さん・監督の今泉力哉さん・そして熊谷晋一郎准教授が登壇されました。
「愛がなんだ」が公開されて以降、角田さんと今泉監督がイベントで一緒に登壇されたのは今回が初めてのことだったようです。

熊谷晋一郎
東京大学先端科学技術研究センター准教授
障害や病気の当事者が、自身の病状や日常の苦労を研究対象とし、それらを仲間と分かち合いながら向き合っていく「当事者研究」という取り組みを行っている研究者。ご自身も脳性まひで、普段は車いすで生活されている。
著書に「敗北の官能」をテーマに自身の幼少期からのリハビリ・日常生活について語った「リハビリの夜」(医学書院、第九回新潮ドキュメント賞受賞作品)がある。

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このイベントは、多くの人にとって大きなウェイトを占める「恋愛」について真正面から語ることのできる場を作りたいという想いと、「愛がなんだ」で描かれているテーマと熊谷先生が普段取り組んでいる当事者研究がマッチするのではないかという考えから企画したものです。

(企画の経緯についてはこちらもご覧下さい…!)

今回はイベント当日の、特に印象的だった部分をピックアップしたレポートをお届けします。
※登壇されたお三方の言葉は状況に応じて言葉を補ったり整えたりしている部分があります。

​20年の時を経ても、意外とみんなテルコだった!

トークセッションの初めには、角田さんに小説「愛がなんだ」制作時の背景を伺いました。
角田さんがこの小説を書かれたのは今からもう20年近く前とのこと。

角田さん:この小説を書いた当時、世の中の風潮としてテルコみたいに尽くすような恋愛をしてはだめよ、私なんかはもっとかっこよく恋愛しているわよ、という風に言う女性が多いと感じていました。それならば尽くしまくる女性を書こう!と思ったのがこの小説を書こうと思ったきっかけです。でもいざ連載を始めてみると、実際にそうやってえばっている女性は少なかった記憶があります。意外とみんなテルコだったんですよね。

続けて、2019年現在にこの映画が多くの人に見られている現状に驚いているといいます。

角田さん:それから20年が経って現在はそれが逆転して、テルコのような人は少ないんじゃないかと思っていました。みんな関係にスマートさを求めてこういう泥臭いことを嫌う若者が多いんじゃないかって。なので20年もたって映画化してくださってしかもヒットしていることに驚いています。

壇上では2019年も意外とみんなテルコだったんだね、という話になりました。

クララがたった!ならぬ、マモちゃんがたった!〜守が男のシナリオから降りた時〜

次に、熊谷先生の視点から印象的だったシーンを挙げていただきました。その一つが「マモちゃんがテルコと一夜を共にするシーンの、たったタイミングの秀逸さ」

このマモちゃんとテルコのシーンは、今泉監督ご自身がかつて片思いしていた女性から恋愛相談された時に抱いた複雑な心境が反映されているのだとか。

今泉監督:あそこの関係性の演出ってすごく難しいなと思っていて。(中略)自分も片思いしていた女性から恋愛相談をされたことがあって。他の人には見せないような弱音を見せてくれることはめちゃくちゃ嬉しいことくて、誰でもいいわけではない相談をしてくれるくらいの距離にいる、でも恋愛対象としては全く見られない
この二つのめちゃくちゃ悲しいことと(テルコが守にとって)その他大勢ではなくなっているという距離感みたいなのをちゃんと二人のお芝居で示されているなと思いました。

そして「あのシーンのたつタイミングが絶妙っていうのはどういうことなんですか?」と今泉監督から質問が入ります。

このシーンにはたつということが何たるかが詰まっている、と熊谷先生。

熊谷先生:直前はアルコールのせいかな、などと言いながら、そんなわけはないわけだけれども、たたないわけですよね。それで守がちょっと弱い部分を出して、その後からたったと。(中略)たつというのは、等身大をさらしたときにたつものなんだと。これは結構大事なことなんじゃないかと思っています。

続けて、ご自身の経験とともに「等身大をさらしたときにたつものなんだ」という言葉の真意が話されます。

熊谷先生は脳性麻痺のために健常者と比べて体を動かすことに制限があることで、「あるべき男性像」と自分との乖離に苦しんでいたそうです。

熊谷先生:思春期、(性的なことについて)エロ本から情報を得るしかなかったような時代、(中略)その教材(エロ本)を見るたびに私は結構落ち込んでいました。なぜなら、そこにはそそりたつ男性のイメージが描かれており、腰を振っていて、私からみると劇団ソレイユの世界じゃないけれども、こんな風には動けないぞという情報しか入ってこない。エロスのシナリオといいますか、セクシュアリティのシナリオは健常者向けにできているのかと。

あのシーンには、その「健常者向けのシナリオ」の呪縛から熊谷先生が脱却していった道筋と近いものを感じたとのこと。

熊谷先生:そこで我々障害者は、頑張って健常者向けのシナリオに近づくためにトレーニングをするのか、それとも全く新しいシナリオを作るのかですよね。(中略)後者で問題になるのはエロスやセクシュアリティのシナリオを等身大のものに組み換えていったら必ず変態的になってしまうこと。(中略)そこに若い頃は迷っていたけれど、それはもう受け入れるしかないわけです。
そうやって変態性・受動性みたいなものを受け入れたときにたったわけですね。それに近いものをマモちゃんのあの瞬間に感じました。男から降りた、男のシナリオから降りた感じがしたんです。男のシナリオから降りた瞬間にたった

「クララが立った、ならぬマモちゃんがたった。クララはマッチョだったけど、マモちゃんはマッチョじゃなくなったらたったんですね」との言葉に会場は笑いに包まれました。

熊谷先生の話を受けて、今泉監督もこのシーンがテルコと守の関係性のバランスに変化が出せた場面だということに触れながら、次のように言います。

今泉監督:このシーンは、守が本当の悪人じゃなくなる、というか。相手に対しての罪悪感だったり頭で考えすぎてしまっていることがあるから多分たたなかったのだと思う。決してお酒のせいではなくて。
その後自分の弱音を吐いたり相手に対して自分をさらけ出してバランスをとる、というか上に立っているかもしれない自分を下げて低くなった時にたった、という話はすごくその通りだな、と思いました。

この映画に感じる開放感の所以は…?

話題は移り、ラストシーンについて。
熊谷先生は、フロイト以来用いられる持ちたい欲望・なりたい欲望という言葉を使って、「ラストシーンまでは、所有関係の欲望の物語、つまりよくある恋愛の物語と思ってみていたら、持ちたい欲望の人が次々と脱落していき(ナカハラなど)、最後生き残ったのは燦然と輝くテルコだった。彼女はなりたい欲望までいっていたのか」と言います。

この映画でのテルコの輝きを丁寧に見ていくと、この映画がなぜ多くの人の胸に響いているのか、その一端が見えてきました。

熊谷先生は、「女性が自立した恋愛・客体ではなく主体としての恋愛を始める時代に差し掛かっていた時に、むしろそうではないものを書かなくてはならないと思った」という角田さんの執筆の背景に、前章でも触れられた、自身のセクシュアリティについて述べた著書「リハビリの夜」(2009)を書いたときのモチベーションと重なる部分があると感じたそうです。

熊谷先生:(自身のセクシュアリティについて考えるとき、)不満だったのは、「障害を持っていても恋愛できるんだ」というマッチョな恋愛像
「俺たちだって健常者並みにブイブイ言わせられるのだ」という障害者の恋愛・性の打ち出され方が非常に現実離れしているような感じがしていまして。

熊谷先生は、幼少期のリハビリでの”監視され続ける”というマゾヒズム的な経験がセクシュアリティの原型だといいます。

熊谷先生:私自身の中に作ってしまった健常者への憧れですとか、ちょっとマゾヒズム的といいますか。私は小さい頃ずっとリハビリを受けていたんですけれど、(中略)リハビリで監視されて調教されるというか、健常者っぽく動けるのかどうかずっと監視されているような緊迫感の中で、3,4歳の頃からオーガズムの経験をしていたんですよね。
監視のまなざしの中で、理想通りに振舞えない自分というものにゾクゾクしたんです。

続けて、「恋愛は抑圧的な部分から起動されうる一面を持っているのではないか」ということを指摘。

熊谷先生:その自分にとってかけがえのない、セクシュアリティの原型となっている経験を“弱者のマイノリティの抑圧体験”と言われたくない。それをもう少し堂々と世に出したいというのが(「リハビリの夜」を執筆した)大きなモチベーションでした。
(中略)
もしかしたら恋愛は抑圧的な部分が多少はないと起動し得ない、そのあたりをむしろ凝視したほうが広い意味でのリベラルになるのではないか。そうした方が障害者の性が論じられるんじゃないかというのは強く思っていました。今回の作品も、まだ言葉にはしがたいのですが、共依存的で虐げられていて便利なように見えてそこはかとなく希望を感じる・開放感を感じてしまう。(中略)もしかして多くの人が見逃しがちな真理を言い当ててしまったのではないでしょうか。

この熊谷先生の指摘を受け、今泉監督は、実情を見つめることなしに過度な平等を謳う今の世の中に違和感を抱くといいます。

今泉監督:はなから弱者的に扱われる人たちが大きな声を上げて対等になろうとすることって、なんかバランスが不思議だなあと思うことがよくあって。平等とかって、別にできる方がやればいいという方が合っている気がしています。「尽くす」ということで言えば「専業主婦になりたい」と普通に言うこともできないような世の中になっている気がして。

ひたすらに尽くしまくる劇中のテルコについても、「尽くす」という行為のネガティブな面ばかりに目を向けることに疑問を投げかけます。

今泉監督:テルコは、もちろん両思いになりたいという思いがあるかもしれないけど、一緒にいるあの時間の幸せは嘘ではないと思うし。その辺が極端なことしかなくなってしまうのはどうなんだろうなあとか、みんなの幸せが同じではないのになとは思います。

角田さんは、テルコは抑圧感があるからこその喜びを感じていながらも、そこに虐げられている感じがないところがこの映画の良さだと語ります。

角田さん:テルコが強いじゃないですか。私はこの映画を観てこの辺がすごく面白いし、いいなと思いました。
多分役者さんたちの力だと思うのですけれど、全然虐げられた女の映画じゃない。テルコが輝いていて、強くて。それは抑圧感があるからこその喜びがあるんだろうなと思えてしまって。もしかしたらまもちゃんが振り向いて全力で愛情を注いだらテルコにとっては飽き足らなくなるかもしれないと思えるくらいに。
最後、テルコがマモちゃんの友達を選んだ時、マモちゃんとすみれさんがなんだかかわいそうで、敗者に見えるんですよ。テルコが勝ち誇って見えるんですよね。その強さが全然虐げられたり、何かされている人の話ではないというのが、私は非常に見ていて気持ちよかったし、開放感がある映画だなと思ってみていました。

恋愛とともに生きていく私たちに向けて

イベントも終盤に差し掛かり、
「自分がどんなスタンスであれ、完全に恋愛と無関係で生きていくことは難しい中で、どう恋愛とともに生きていけばよいのか」ということについて、
角田さん・今泉監督に言葉を頂きました。

角田さん:ひと昔前だと恋愛してないとおかしいみたいな世間の風潮があったんですよね。雑誌とか女性誌も全部、20代・30代いくつになっても恋愛してないとおかしいみたいな、恋愛していないことがまるで欠陥のように言われていた時代に私は生きていたので、逆に恋愛に興味がない人は非常に生きづらかっただろうなと思うんです。今は恋愛に興味がないって普通に言えるようになったからその当時よりはある意味楽な部分もあると思うんですよね。ただ逆にテルコみたいな人は言いづらいですよねとも思う。
でもそれは時代の話であって、自分がその中でどうしたいか。他にも面白いことがいっぱいある中で恋愛をしなくても全然良いのだし、恋愛をしてもいいのだし。
名づけようのない関係ができてしまったらそれは自分の個性を自分の恋愛なんだなと思えばいいんだし、その自分というものを他者と比較しない自分というものを見つけたほうが多分良いのだろうなと今は思います。
今泉監督:難しいですよね。今日はひたすら恋愛の話をしていたけれど、角田さんが言ったように恋愛しないこと・好きな人ができないことも全然悪いことじゃないと思うし、それで悩んだりすることもあるのだと思う。
恋愛という効率みたいなこととは真逆のことを、それでもしてしまって好きになったり付き合ったりしていくことをどう捉えるかですよね。それが楽しければやっていればいいし、苦手だったら離れていっていいと思うし。
(中略)
自分もずっとモテなくて、基本彼女がいなかったんですけれど、片思いしてる時って辛いけども凄く良い時間だとやっぱり思っていて。
(中略)
これは壮大すぎるし、一人ひとり違いすぎるので決めつけるっていうよりは好みというか。ただ自分は、テルコもそうですけど、好きな人ができるって結構豊かなことだと思ってはいます。

そしてイベントは、次の熊谷先生の終わりの言葉で締められました。

熊谷先生:「愛がなんだ」というタイトルが最初、意味が取りづらかったんですが、角田さん・今泉監督の想いの一端を伺う中で、そういうことか、ということをすごく今感じております。
先ほど「名前のつかない関係」といみじくもおっしゃったように、どの登場人物もやっぱり皆さんすごく弱くて、それぞれに型通りの恋愛と型に収まらない名前のつかない関係との間を行ったり来たりしている様子で、それぞれ最後その予兆といいますか、それぞれが自分たちの名前のつかない関係性を選び取っていくその手前くらいで最後終わるようなそういう作品。恋とか愛とかじゃないんだよみたいな、そういう関係の形を模索する、地を這うようなプロセスがこれでもかというぐらいに描かれた素晴らしい作品だという風に思いました。

最後に…

トークセッション中に「愛がなんだ」の鑑賞回数を会場の方に聞く場面では、複数回目の方も多い一方で、初めて鑑賞という方が半数近くということが判明!
「愛がなんだ」の鑑賞会を東大という場で行うことの目的として、原作・映画ファンの人、当事者研究に興味がある人、あらゆるバックボーンの人たちを巻き込んで今までにはない空間・観点が生まれたらいいなあという思いがありました。4月末に公開され、それから4か月以上経過している中でのこの結果は、そのような場を作れたのではないかなあとの実感を抱く一つの場面となりました。

当日の様子は後日KADOKAWAさんのWebマガジン「カドブン」でも掲載していただく予定です。
そしてそして…先日9月20日から今泉監督の最新作「アイネクライネナハトムジーク」が公開中のようです!そちらもぜひ劇場に足を運んでみてください。

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角田さん・今泉監督・熊谷先生、本当にありがとうございました!

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