あの子の強さに甘えてはいけない

  両親が離婚して母子家庭になり、それゆえ家がとてつもない貧困になってしまい、それを理由に学校でいじめられた子供がいた。両親が別れてしまったのは、父親がどうしようもないろくでなしだったため、未来を考えると母も子も幸せにはなれないと母が決断したからだ。
 もしここに外部の大人達が、いじめの加害者を批判するより先に、被害者に対する慰めの言葉をかけるより先に「子供がいじめられたのは親が離婚したせいだ」と口を挟んできたら、一体どれほどの人間が納得できるだろうか。

 上記のいじめは私が中学一年の頃に体験したものなのだけれど、私は運がよかったらしく、誰の助力を得ることもなくこのいじめを比較的早めに克服することができた。ではいじめられていたとき私はどう思っていたのだろうか。無論「なんで自分がこんな目に」とか「こんなにひどいことをするあいつらは悪人だ」と思うこともあったけれど、一方でやはり「私の家が母子家庭で、貧困なのもいけないんだ」と、望まずに置かれた自らの環境に噛み付くことも多々あった。
 流石にそれは酷だと自制が働いたからか、母に直接そう言った言葉をぶつけることはなくすんだものの、胸の内では「母がきちんとした父親を選んでいれば」「うちがもっと経済力を持っていれば」という言葉が常に渦巻いていた。私はすこぶる鈍いこともあり、母の決断や自らの環境に対し諦めや理解が及ぶにはまだまだ遠かった。そこには人並みの生活を送る他所様の家庭に対する妬みのようなものも混在していただろう。貧困の中で女手一つ、子供三人を育てた母が「弱者」なのか「強者」なのかはわからないけれど、ただひとつわかる、今でも変わらずに思い続けていることは、子供達の未来を鑑みて、連れて逃げる決断をした母は間違いなく「強かった」のだと。

 横浜に住む中学生の男の子が、学校で理不尽ないじめを受けていたことが認定されて話題になっている。他のいじめと異なるのは、この子の親が東日本大震災の後、原発事故のあった福島から自主避難する形で移住したことだ。男の子はそこで「ばい菌」という扱いを受け、暴力も受け、「賠償金もらってるんだろ」と言いがかりをつけられお金を何度も巻き上げられたようだ。本当に苦しいニュースである。
 その後、男の子が弁護士を通じて公開した手記がまた話題を呼んだ。そこには自分の受けたいじめと自らの思いや感情、死にたくなるほど苦しみながらも、震災で亡くなった多くの人間のことを考え「生きる」という道から外れることをやめなかった「強さ」が認められていた。
 ニュースでその手記の内容を聞いたときに、私は胸を打たれて思わず下唇を強く噛んだ。ネットを覗くと、同じ思いに駆られ、男の子の「強さ」を褒め称える言葉、いじめを憎む言葉が多く並んだ。
 同時に、酷く悲しい言葉も目にすることになる。それは「子供がいじめられたのは、放射能を恐れて親が逃げたせいだ」「知識の足りない親が愚かな決断をしたせいだ」というものである。

 ここで放射能の危険性が実際にどうなのか、自主避難という行動自体が正しかったどうかなんて語る気はさらさらない。正解なんて出ないのだ。だいたい自分にとって住みやすい場所なんて誰でも勝手に決めればいい。ただひとつわかるのは、その決断自体が誤りであったかとか、知識の無さに起因するものであったかどうかを、ましてや生活環境と密に関わるようなものを引き合いに出して、今回のいじめに関する批判の矛先とするのは誤っている。シンプルに原因だけを追求すれば悪いのはただ、加害者といじめを構成するシステムだけである。
 自分が学生の時、自分のクラスに『親が(あくまで自分の中で)正しくない決断をした人』が転校してきた時、あの人の親は正しくないんだ。さあいじめようという考えがはたして起きるだろうか。そもそも親が一体何だったら「子供への暴力やカツアゲの責任が、明確な悪を実行している加害者本人を無視して被害者の親の元へ届くことを是とする」のか「しない」のか。その危うすぎる判断の物差しは、誰がどういった形で携えているだろうか。提示できるものなら是非提示してほしい。
 赤の他人が口にする「恨むなら親を恨め」ほど、無神経で無理解で無責任な言葉はない。そもそも自主避難した人を「誤った判断をしている知識のない人」と批判するのであれば、放射能を恐れた人を「ばい菌」と詰ったり、賠償金貰ってるんだろとカツアゲをする人間とは、それこそ真っ先に叩くべき「誤った判断をしている知識のない人」ではないのか。「正しい意識を教える必要がある」ならば、まず歪んだ知識で殴り始めたいじめの加害者に対してが最優先ではないだろうか。

 何かに立ち向かうことは「強い」。けれど、未来なんて何があるのかわからない。この先を鑑みて自分や自分の大切な人を守るためにその場から逃げることも、私は「強さ」だと思う。当たり前だ。傷付けるだけの人間より守れる人間のほうが圧倒的に強いに決まっている。いつか、父が齎していただろう災厄から子供達を必死に連れて逃げた母を見る度にそう思う。そして、そんな人もいつだって「強い」存在でいられるわけでもなければ、その「強さ」に他人が甘えてもいいわけではないこともわかるようになる。
 「弱い」とはどういうことか。「逃げる気力すら奪われている状態」でだと思っている。なすがままにいじめられる人や、ブラック企業に気力を搾取されている社会人を見れば一目瞭然だ。そんなときは「強い」人が余裕のあるときにその手を掴んで引き上げればいい。一緒に逃げてあげれば、逃してあげればそれでいいのだ。だから私は理不尽な脅威から誰かを守るために逃げることを、知識があろうとなかろうと「弱い」とか「正しくない」という言葉で詰る気はとても起きないし、ましてやそれを以っていじめの被害者の傷に塩を塗るような真似はできない。とはいえ残念なことに、世の中にはタフな言葉を他人に投げれば、それが正しく、たくましいと思いこんでいる人も少なくない。
 あの手記を目にしたほとんどの人が認めている。今回いじめを受けた男の子は「強い」と。「たくましい」と褒め称えている。私もそう思う。先程も言ったが脅威から逃げるのも「強さ」だ。いよいよ向かい合いきれずについに助けを得ている現状もこの子の「強さ」だと思う。
 だからこそ、この子の強さに甘えてしまった人間が現れた。いじめがどうより、自分の思想信条に傾いて、批判の矛先を親の決断や家庭環境に向け始める言葉が出始めた。その言葉はこの子の親の「弱さ」を殴っているように見えるけれど、自分の主張が先走って加害者やいじめの起きるシステムといった根幹より先に殴る矛先に選んでしまった時点で、実際はこの親子の「強さ」に甘えてしまっているのだ。誰の傷も癒えず、何の解決にもならない言葉を投げる道を選んでしまったのだ。他人の弱さを見出しながらもある種の耐久性に期待を馳せて、己の思想にとって心地よいというだけで都合のいい原因を象り、本当の責任の所在から目を逸し、殴る。人はそれを「いじめ」と呼ぶ。

 今私が書いているこの文章だって、きっとそんな程度のものかもしれない。この記事は、この子の強さに甘えて書かれた情けない大人の文章である。私の中でこの子は「強く」、この子を連れて逃げた母親も、先述の理由で「強い」人間だと思っている。だけれど、強い人間は守られなくてもいい人間ではない。この子の強さを褒め称えることもいいけれど、それだけではきっと、この子の強さに甘えっぱなしなのだ。今こそ、ああいったいじめを絶やすために私達が強くならなければならないのかもしれない。
 今のこの子の年齢は、私がいじめを受けていたときの年齢と一緒だ。比較すればするほどに、いよいよ頭が上がらない。この子は、震災で亡くなった人達の思いを引き受けて「生きる」という決断をした。それは生きるため、守るために避難するという親の決断も背負っている。仮に自分が避難したくなかったとしても、もはや抱えてしまった不条理を、引き受けて立ち向かう決断をしているのだ。今さらそれをどんな言葉で誰が詰れるだろう。
 また強さに甘えるような事を言ってしまって重ね重ね申し訳ないけれど、多分私などが偉そうに言わなくても、この子もすでにわかっているだろう。私は何度でも強く断言する。このいじめにおいてこの子の親が選んだ自主避難という手段に批判の矛先を少しでも向けるのは、誰が何と言おうと完全に誤りであると。
 私は1-1でマリオに踏み殺されるクリボーなみの雑魚キャラではあるけれど、言葉だけで強くなった気分になっているような勘違い野郎でもなんでもない、本当の意味でたくましい大人になれるだろうか。そうすればこの男の子や、この子を守ろうとした親御さんがもう少し、生きやすい世の中になるかもしれないのに。

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星井七億

応援ノートnote応援部

2016年9月にnoteを応援したい有志で作ったnote応援部のマガジンです(´ー`*)ウンウン note応援部斬り込み隊長の望美が担当しています゚・*:.。❁
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