台風の日、ツイッターに地獄を見た私は運が良かった

 養生テープで窓に目張りをして、Amazonで水を注文する。日持ちのするパンやカップ麺、無洗米を買い置き、カセットボンベや電池、懐中電灯に携帯ラジオまで確保して、モバイルバッテリーを満充電に。
 浴槽や洗濯機に水を溜め、すぐに避難ができるようリュックサックに諸々を詰める。暇つぶしのためiPadに映画を何本かダウンロードすれば、台風19号への準備は万全だ。相方と二人三脚で台風対策に精を出した。
 私はこれまでに、台風に対する備えというものをほとんどしたことがなかった。今回特に力を注いだのには、先の台風における千葉県の惨状が記憶に新しかったというのもあったけれど、相方と暮らしていることのほうが大きい。私一人がくたばるならともかく、相方だけは守らなければならない。

 私は日本随一の台風王国・石垣島に生まれ育った。幼い頃から年に二~三発はそこそこのクラスの台風に見舞われてきたので、台風に対する慣れが都会の人間よりは強い気がする。となれば、都会の人間よりも台風に対する警戒心をもっと強く持っているべきなのだけれど、私がそのあたりで希薄だったのには「意外とどうにかなってきた」からだ。
 noteでは度々言及しているけれど、私はなかなかの貧困家庭で育ってきた。私が小学生から高校生まで暮らしてきた木造の借家は、窓ガラスが割れてなくなっているためガムテープを貼ってガラス代わりにしていた。夏になれば家中を数十匹のシロアリが飛び回り、あらゆるところがシロアリに食い尽くされてボロボロである。台風の中で1畳ほどのスペースしか無いお風呂に入っていたとき、壁が吹き飛んで外から丸見えになったことがある(もっとも台風の最中なので誰も外は歩いてなかったが)。
 台風などこようものなら跡形もなく吹き飛びそうな家だったが、どういうわけか意外とそうはならなかった。断水したりガスが止まったりすることもなかった(料金未納で止まることはあった)。ただし停電はしょっちゅうだったので、常にロウソクは欠かさなかった。「黙って寝てたらそのうち終わってるだろう」というのが家族の認識で、実際大抵のケースはそうだった。台風が過ぎたあとの街を歩いて横転している車や折れている電柱を見るのが楽しかった(今思うと結構不謹慎だ)。


 このように「意外とどうにかなってきた」私と台風の関係だったが、すごく余裕があったかといえばそうでもない。私はともかく、子供三人を女手ひとりで育てていた母はきっと不安もあったろうし、ミシミシと音を立てて震え、ロウソクだけが灯る暗い家で、わずかな食料を分け合って食べている家族に、他の誰かを助ける余裕などあるはずがなかった。数秒後には家がまるまる吹っ飛んで、暴風雨の中で家族全員が路頭に迷う可能性が無いなんて誰にも言えないのだ。次の台風も「意外とどうにかなる」かなんて誰も約束できない。
 私の住んでいた借家はひとつの借家を無理やり二分割したような作りをしており、私たち家族はその片方に住んでいて、もう片方には盲目のおばあさんがひとり、ヘルパーの手を借りながら住んでいた。用を足す際には毎日、外にある汲み取り便所まで杖を使って器用に歩いていくおばあさんだったけれど、台風の日、私達の家の戸を叩いたことがあった。お手洗いに行きたいが風が強く、転んでしまうかもしれないので一緒についてきてほしいというのだ。私は暴風雨の中、おばあさんをトイレまで送迎し、ついでに食料を少し分けてあげた。ただしこれは私が「運良く」それができるだけの余裕があったからであったし、状況が状況なら、私はおばあさんを見捨てる立場にあったかもしれない。
 「意外とどうにかなってきた」のはつまるところ、これまでが「運が良かった」だけであり、どれだけ必要な物資を揃えても、どれだけ住居を補強しても、それらでなんとか災害を乗り越えたところで、それは人間の努力以上の「運の良さ」が働いた結果だと思っている。その人にとってその災害が運良く、努力を押しつぶすレベルや状況ではなかったというだけであり、大きな被災に見舞われた人々や土地は、努力や備えが足りなかったわけではない。それを以て「運次第なのだから努力や備えなんて無駄」というつもりは微塵もないけれど、そもそも「努力ができたか(できるか)どうか」だって運次第である。街中であらゆる物資が売り切れている状況で、必要なものを揃えられず被害を受けた人に対して「努力をしなかったお前が悪い」と言う人間がいるのなら、さっさと台風に吹き飛ばされてほしい。もしも身体が弱くて買い物に行けなかったら?
 人は誰しも、運悪く明日を奪われる立場である。住居を奪われ、安心を奪われ、未来を奪われる。そんな状況で自分以外の誰かに手を差し伸べられなくても誰も責められない。しかし、そんな状況が存在するからこそ、行政がしっかりと手を差し伸べなくてはならない。

 やっと本題に入る。昨日、台風の話題で持ちきりになるツイッターを覗いていたら、目を疑うような情報が飛び込んできた。台東区が避難所からホームレスを締め出しているというのだ。「台東区民だと証明できないと避難所には入れられない」のだという。純度100%混じりっけ無し、言い訳無用でどこをどう見ても「行政が命の選別をした」ケースである。
 台東区には昔から山谷というドヤ街があり、そこには住民票も持てない多くの日雇い労働者がいる。またドヤ街には簡易宿泊所があり、宿泊料が安いので訪日客が宿泊することもある。「区民だと証明できないと守ってやらない」というのは単なるホームレスの締め出しだけに留まらない。
「税金を払ってないやつを助けてやる必要はない!」という非情な言葉を目にした。
 私も少なくない税金を払っている身の上だが、税金とはこの国に今行きているものの命や生活を選別せず救い、補うために払われている金であり、もしもホームレスを救えないというのなら「だったら払った税金返せ」と私は胸を張って言うし、家を無くした瞬間に税金に救われる余地を失うのなら、それこそ家を台風で跡形もなく壊されて避難所に駆け込んだ人間も追い払われなければならない。なにより、誰しもいつホームレスになってしまうのかわからない。私はいつでも、自分がホームレスになっていないのは「運が良かったからだ」と思っている。

 さらに「ホームレスを避難所から締め出すのに怒ってるやつは自分の家に泊めてやればいい。それをやらないやつは偽善者だ」という意見も見受けられた。悲しくて、どこまでも愚かで、限りなく無知な言葉だと思う。
 そもそも、どんな人間でも非常事態には命の選別をせずに誰でも助けてやるのが行政の仕事であり、義務である。非常事態にはどんな人間も、自分達の明日を守ることで必死になって気持ちに余裕がない。数秒後、自分達がどうなっているかもわからない。私だって自分と相方を守るので精一杯なので、もしも昨日ホームレスの方が私の家に訪れて「避難所を追い出されました。一晩泊めてください」と言われたとしたら、状況によりけりではあるけれど、OKする自信が私にはない。
 そんな状況でも、守られなかった人間がいて、守るべき義務を放棄した機関に「ちゃんと守ってやれ」と叫ぶことにどうして批判的になれるのかがわからない。そもそも行政が傲慢さから義務を怠ったことによる綻びを、今まさに非常事態の最中にいる民が自己犠牲で補え、でないと偽善だとのたまう人間は、一体誰の顔色を伺い、誰の尻を舐めているのだろう。
 もしそれで民がホームレスに手を差し伸べて、共倒れになってしまったとき、その手の人間はおそらく行政に責任を求めることはない。自分達の大好きな「自己責任だ」という言葉で処理しようとするだろう。生活保護批判の問題でもそうなのだが、彼らは「運次第で人間の生活はどれだけ努力していてもたやすく壊れる」ということを、それがいつ自分に降りかかるのかということをいつまでも理解しないのだ。だから「運が悪かった民も救う」義務がある「行政の負うべき仕事」を軽視するか理解を放棄するかして、個人個人に責任を回収させようとする。
「行政に必要な支援と義務を要求する」のと「自分では他者の支援を控える」のは一人の人間の中で当たり前に共存できる。これは善であるか偽善であるかの話ではない。
 もしも国が「民間が子ども食堂を運営しているから、子供の貧困や孤食の対策をしなくてもいいよね」と言ったら「民に頼らずやるべきことをやれ」と怒るのは当たり前なのである。
 弱者の命が行政によってふるいにかけられ、理解を放棄した者達が追い打ちをかける。非常事態になると誰しも余裕を失うものだけれど、その日、私はツイッターに確かに地獄を見た。

 台風が過ぎた今日、私の住む地域にはこれといった被害がほとんどなかった。TVで台風の惨禍を眺めながら、いつもどおりの生活に戻っている。窓に貼ったテープを剥がし、買い溜めていたパンを昼食に貪りながら、いつ吹き飛んでもおかしくなかった木造の借家から頑丈な鉄コン製のマンションへと住居が変わって、防災グッズを準備できる身分になった自分を振り返り、こうやって長々とした文章を書く余裕もある。そんな中だから私は言える。「私はただただ運が良かった」と。

【追記】この記事にいくらかのサポートをいただけているようで本当にありがとうございます。サポートされたお金は全て、今回の台風により被災された土地や人々への支援金へと寄付させていただきます。


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