幸せになるための名前

 今年の七月に結婚して二ヶ月になる……と前回のエントリで書いたばかりである。

 このツイートを見ればわかるように、私の苗字は変わった。
 新しい名前を名乗り始めてしばらく経つけれど、未だに名前を手書きするときに、うっかり旧姓を書いてしまう瞬間がある。とはいえまだよそよそしいこの名前にも、いつか馴染む日が来るのだろう。

 苗字を変えた理由は結婚相手の父親、つまりは私にとっての義父からの要望だった。私も最初は難色を示した。三十年もこの姓で生きてきたのだから当然である。とはいえ、姓というものについて強いこだわりがあるのかといえばそうでもない。
 私の名前の事情はちょっと複雑で、幼くして両親が離婚してから私は母子家庭で育ったものの、大人同士の面倒くさい事情から、姓は離れて暮らす父親のものを名乗っている。つまり、私と母は共に暮らす親子でありながら姓が異なるのだ。このことは以前、某メディアに寄稿したコラムでも書いた(この頃はまさか姓が変わるとは思っていなかった)。

姓が異なる母親に育てられた私が、家族について思うこと

 結果的に私は姓が変わることを受け入れることになる。その要求を受け入れずとも結婚することはできたものの、自分達の姓を受け入れてくれる代わりに、と義父が差し出した諸々の条件が、長い目で見て自分達の得になるかもしれないと踏んだからだ。何より先述のように、私は姓にこだわりがない。
 だからといって、簡単にはいわかりましたと頷くわけにはいかない。生まれた頃から使い続けてきた姓を私に与えた人、つまりは実の父にこのことを伝えなくてはならない。私は自分の両親に紹介するため結婚相手を連れて帰省した。その紹介の場で私は両親に「姓を変えようと思っている」と伝えた。母は快くOKを出してくれたものの、父は激しく反対し、しまいには泣き始めた。
 私の父も義父もそうだが、ある年代の男親には、名前を受け継がせていく、ということに強いこだわりがあるのだろう。その場では泣きながらも結果的に父は弱々しい声で許可をくれた。
 きちんと両親に禊は済ませた、と義父に伝えると喜んでくれた。ところが数日後、父は電話で再び反対し、またも泣き始めた。私だって使い続けてきた姓に全く愛着がないわけではない。私の故郷である沖縄ではポピュラーな部類に入る得に珍しくもない姓ではあるが、父がくれた大事な姓である。しかし私が言葉を尽くすと、父はこう言って認めてくれた。

「お前が幸せになるんだったら、それでいい。苗字が違っていても、お前はずっと変わらずに俺の子供だ」

 私は姓にこだわりがないけれど、名前が連れてくる幸せというのは確かにあるのだろうし、名前で回避できる不幸、というものもあるのだ。それはどういう形の名前なのか、ということではない。なぜそれを名乗るのか、誰のためにそれを名乗るのか、というところに潜んでいるのだ。
 何かを名乗ることで人並みの幸せを手に入れたり、理不尽な目に会うことを回避できたりするのならば、思い入れのある名前を、あるいは必要な名前を名乗ればいい。それは他人の事情も推し量れない、どこの馬の骨かも知れない誰かによって妨げられたり変えられたりしていいものではないし、本当の名前を名乗れと偉そうに命令される必要もない。世の中はそんなに単純ではないし、その複雑さを名前だけである程度解決できるなら、これほどありがたいことはない。
 名乗るべき名前も、名乗りたい名前も、名乗らなくていい名前も、名乗らざるをえない名前も、自分の中だけにある。けれど自分がどの名前を愛するか、自分がどの名前で苦しむか、自分がどのような名前を名乗るようになるかなど、予知できぬ運命が差し向けるものだ。
 名前「なんか」で不幸になってたまるか。名前「だからこそ」幸せでありたい。名前の意味や価値は時として軽く、時として重い。自分の胸に貼った名札への想いは、赤の他人になどわからない。
 私と母は姓が違う。それでも私は何物にも代え難く、何物にも負けない愛情を受けて育った。そして今度は父と、そして兄妹と姓が異なり始めた。今の私と同じ姓を持つ人間は、私と直接同じ血を継いだ人間の中には、もういない。そして私はこの新しい姓で、新しい幸せを築き上げていく。
 世の中には幸も不幸も名前のないものばかりだ。だからこそ私は、涙を流して受け入れた父のためにも、私と結婚した人のため、なにより自分のためにも、幸せになる名前でありたい。この名前で幸せになれるかどうかは、私のこれからにかかっている。

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星井七億

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