実験小説「貧しい兄妹」

 風土や文化は日本に限りになく似ているが、日本ではない架空の国の話であることを予め知っておいてもらいたい。
 寂れた街の片隅にあるあばら家に住んでいたその家族は、母と兄、妹の三人で暮らす母子家庭だった。兄の名前をA太、妹の名前をB子、母の名前をC代としておく。
 戦後間もないこともあり貧富の差は極端に激しく、市井に生きる者達は誰もがその日の食事に事欠く時代であった。A太達の三人家族も例外ではない。 
 「B子、母さんにおかゆを持っていってくれ」
 襟が伸び、所々に穴の開いたシャツを着たA太が台所に立っていた。つい先程、鉄くず売りの仕事を終えて帰宅し、急いで食事をこしらえたばかりである。
 おかゆと言っても白米を煮たものではない。米の形はしているが、安く、質の悪い「何か」である。白米は上流階級のものしか口にできない高級品であり、貧しいA太達の食卓に登るのはいつも、味や栄養などとは無縁な、腹をふくらませることができるだけの「何か」だった。 「お母さん、おかゆができたよ」
 B子がお椀を持って、布団の中にいる母のもとへ駆け寄る。
  何度も咳き込みながら布団から身体を起こしたC代は、手のひらでB子を制す。顔色は青白く、頬は痩せこけていた。
 「私はいいから、あんたたちが食べなさい」
 「何を言ってるんだよ。食べなきゃいつまで経っても元気にならないだろ」  A太は母が申し訳無さそうな顔をしながらゆっくりとおかゆに口をつけるのを確認すると小さく安堵し、次は自分達用の食事を用意した。今晩の献立「も」ふかした芋とわずかばかりの「何か」である。重い鉄くずを一日中運び続け、年齢不相応にゴツゴツとして皮が硬くなった手のひらが、細い芋を鍋の中へ投入していく。
  A太は今年で十四歳になる。B子は十歳、C代は四十路を目前に控えていた。
 二人の父は二年前に死んだ。働き者で真面目な父だった。子煩悩で、ささいな悪事すら許せない実直な性格である。親子四人で過ごした日々は貧しいながらも、幼い二人にとっては今もかけがえのない思い出である。
 だがある日、B子が発熱を起こして生死の境を彷徨った際、父は医者にかかる金を工面できないことを知り、借金をしようにも誰も彼も人に貸すほどの余裕がなく、手詰まりになった父はおのれの性分を曲げ、通りすがった上流階級の老人を襲った。ただ脅して金を取るだけで、暴力などを加えたりするつもりはなかったのだ。しかし不幸にも老人には離れた場所に護衛がいた。屈強な護衛達に滅多打ちにされ、父は路上でひっそりと亡くなった。医師に借金をする形で、B子の治療をすることができた。
 その日以来、C代は心身のバランスが不安定になり、それが影響したかはさだかではないが、重い病を患って一日中床に伏す生活を余儀なくされてしまった。自分が家族を養っていかなければならないと理解したA太は、大人達の見よう見まねで鉄くずを拾って売り始め、今ではそのわずかな収入が、不安定な家族の生活を支えている。学校には通っていない。金がなく通えない子供のほうが圧倒的に多いのだ。
 A太の収入は月に十円程度である。この時代、下層に暮らす成人男性の平均月収は十五円程度だった。十四歳の鉄くず売りではどれだけ頑張ってもこの程度が限度であった。
「そういえばそろそろおまつりの時期だね」芋の皮を向きながらB子が言った。
 「俺達には関係ないさ。あれはとっくに、金持ちだけが楽しめる行事になってるんだ」A太がにべもなく返す。
 この街では昔から年に一度、ささやかな祭りが開催されていた。この時期ばかりは寂れた街も少しばかり活気を取り戻すのだが、A太の言葉通り、出店や催し物を楽しめるのは財力のある者達だけであり、下層の者達は太鼓の音に耳を傾けながら、指を咥えて見ているばかりである。
「私、あれをもう一度食べてみたいな」
「あれ?」
「ほら、お父さんがいた頃にお祭りで食べたりんご飴。すごく美味しかった」
 B子が小さな口で芋を頬張りながら、いつかの味を思い出して幸せそうな顔をしていた。数年前の祭りの日、子供達に一度の贅沢くらいはいいだろうと、父がりんご飴を買ってくれたのだ。口の中に広がる甘さと香りは、B子はもちろんA太の舌の記憶にも、鮮明に刻まれている。  
「食えるさ、りんご飴。そのくらいなんだ。今度の祭りのとき、兄ちゃんが買ってやるよ」A太がどんと胸を張ってみせる。
「ううん、いいよ。無理しなくても」
 「兄ちゃんを甘く見るんじゃない。母さんの分だって買ってやるぞ。そのくらいの蓄えはあるんだから」
 もちろん、生活を考えればそんな余裕などない。虚勢を張っていることも、B子にはきっとお見通しなのだろう。
 しかし、たまにはB子に芋や「何か」以外も食べさせてやりたい。あの日の父もきっと、同じ考えだったはずだ。たまには心が豊かになるような思いをさせたいのだ。それは自分にも。
 A太達の話し声が聞こえたのか、C代が布団の隙間から顔を覗かせた。
  母の言わんとしたいことはわかっている。A太は母を安心させるために、小さくつぶやいた。
「大丈夫だよ、きちんと買うから」
  C代は安心とも不安とも言えぬ微妙な表情を浮かべ、二人に背中を向けた。
  一度、A太がその日の食事を用意することに困り、八百屋の軒先からこっそり大根を盗んだことがある。小さくしなびた大根だったが、その大根ひとつのために小さな手を汚すことも辞さない状況であった。
  金もないのに食卓に上がった大根、そしていつもと少し違うA太の雰囲気にC代は違和感を覚え、重い体を引きずってA太を問い詰めた。父親譲りの実直なA太が我慢できず自分の罪を素直に告白すると、C代はA太の頬を力なく張った。
 「あんた、お父さんを見て何も学ばなかったのかい。どんな事情があったにしてもそんな悪さを働いたら、必ずしっぺ返しがくるんだよ」
 C代は久しく出さなかった大声で叱咤すると、ぼろぼろと涙をこぼしながら謝罪の言葉を口にするA太を優しく抱きしめた。この子は、私とB子のために手を汚すことを選んだのだ。やったことは決して許されないが、誰よりも優しい子ではないか。まさしく、あの人の血を引いているのだ。同時に、何もできない自分の身体を恨めしくも思った。
 そんな過去もあり、母は自分がりんご飴を盗んでしまうのでは、と思ったのかもしれない。しかしA太は、もう母を裏切るような真似はしないと固く誓っているのだ。
 「B子、ゴミを捨ててくるから手伝ってくれないか」
 食事を終え、A太はくずかごからゴミの入った袋を取り出す。B子は頷くと小さいゴミ袋を手に取り、二人は外へ出た。
  ゴミ捨て場の近くで、二人は見慣れた顔を発見した。
「おや、久し振りだね。こんな夜にゴミ捨てかい?」
 コートを身にまとった禿頭の中年。彼はこの界隈に診療所を持つ医師であり、最初にC代の様態を見たのも、父が死んだ日、法外な治療費をふっかけたのもこの男だった。この一帯の診察は彼が手がけているのだ。
 「あれからお母さんの様子はどうだい。全然うちにこないから心配なんだよ」
「……ぼちぼちです」A太はぶっきらぼうに答えた。
  何が『心配なんだよ』だ。金が無いから診察に行けないことくらい、こいつだってわかっているはずだ。他に医者がいないことをいいことに、貧乏人から金をたんまり巻き上げて、豪華な家で暮らしているくせに……この医師もまた、上流階級に属する男であった。
 A太はそこで、医師の視線がB子に向かっている事に気づいた。いやらしさを伴った笑うような目つきで、B子の幼い身体を舐るような視線を這わせている。A太の中で一斉に嫌悪感が沸き立ち、B子もそれに気付いてかA太の背中に隠れる。
「B子ちゃん、ずいぶん大きくなったねえ。おじさんは君がもっと小さい頃から知っているんだよ。これならいつ、どこにでも奉公に行けるねえ」
 「奉公になんか出しませんよ。急いでいるので、これで失礼します」
 A太はB子の持っていたゴミ袋を奪い取ると、ゴミ捨て場へ放り投げ、B子の手を引きその場を去った。
「また大変なことになったら、いつでもきなさい」
 医師の言葉を背に受けて、A太は家路を辿る。
 奉公……この時代、下層に暮らす子供が端金で上流階級へ身売りに出されることは、けして珍しくなかった。
 父が生きていた頃、寝たふりをしてこっそり夜更かししていた二人は、両親のこんな会話を耳にした。C代の過去に関する話である。
  C代は幼いころ、とある上流階級の家へ身売りに出された。そこで奉公に務める日々を送ったのだが、その生活は艱難辛苦を極めるものであった、雇い主からの理不尽な暴力と奉仕の強要、寝食に人並み以下の環境を与えられ、それでもいつかはここを離れ、両親の元へ帰り自由に生きていける日々を夢見ていた。
 十年以上に及ぶ奉公の期間を終え、わずかばかりの金を貯めたC代は故郷へ向かったが、家族の行方はわからなかった。あてもなく孤独を彷徨ったC代の元に父が現れ、二人は恋に落ちた。籍を入れ、子供を設けたとき、幸せの渦中でC代は思う。辛くても頑張り続ければ、いつかは家族と呼べる人達と幸せに暮らしていけるのだと。母の思いがけない昔話に、二人は幼いながらも衝撃を受け、また勇気づけられたものである。
 A太はB子の手を強く握りしめた。この手は絶対に放してやるものか。何があってもこの俺が、妹を養っていくのだ。手のひらに伝わる幼い体温が、十四歳の決意をさらに確固なものにした。


 祭りの日が訪れた。太鼓の音、ラッパの音、男衆の威勢のいいかけ声が街中に響き渡り、人々の足も少し浮かれ気味である。
  いつもは夜更けまで続けている鉄くず売りも、この日ばかりは陽の高いうちに終わらせた。A太は今日の稼ぎを握り締めると、駆け足で家へ戻った。
 「やったぞ、やったぞ。俺はついにやったんだ。これで母さんを救えるんだ」
  いつもより足取りが軽い。心が浮き足立っている。顔がニヤつくのを抑えられない。すれ違う人々はA太を見て、そんなに祭りが楽しくて仕方ないのかと思った。
  しかし、事実はそうではない。帰宅したA太は跳ねるように台所へ向かうと、軒下から小さな瓶を取り出す。
  瓶の中には金がぎっしりと詰まっていた。中身を出して金額を確認し、今日の稼ぎを合わせてみる。
 「はは、やった。おい、B子やったぞ」A太の顔に満面の笑みが溢れる。 「お兄ちゃん、そのお金はなんなの?」
 「薬代だよ。母さんの病気には特効薬があるんだ。でもあまりにも高すぎて買えなかったから、毎月一円ずつ、こつこつ貯金することにしたんだ。二年かけてようやく、薬代が貯まったんだよ」
「じゃあ、お母さんの病気治るの? また、元気なお母さんを見ることができるの!?」
 「ああ、薬を買ってもまだ少し余裕がある。病院に行って薬を手に入れたら、帰りにりんご飴も買って帰ろう」
  B子は思わず、A太に抱きついた。嬉しくて仕方ないようだ。当然といえば当然だろう。
  苦労をした甲斐があった。この日をずっと待ちわびていた。母が元気になれば家の中も明るさを取り戻し、生活も少しばかりは楽になるのかもしれない。
  そのとき、何かがバタンと倒れる音がした。二人は音のした方向へ駆けていく。
  居間でC代が倒れていた。畳の上に血の染みが広がっている。口の端から伝うものを見て、二人は母が吐血したことをに気付いた。
 「母さん! 母さん、しっかりして!」
 「やだよ、お母さん、死んじゃやだ!!」
 C代の息はまだあった。しかし、顔色はこれまで以上に悪い。すでにC代の身体から余裕がなくなりかけていること、一刻を争う事態であることはすぐに察せる。
 「俺、急いで病院に行ってくる。あの医者が言ってたんだ。これだけの薬代があれば、特効薬を売ってあげることができるって。B子、お前はここで待ってろ!」
  言うやいなや、金を握りしめたA太は一目散に家を飛び出し、祭りで賑わう街を駆けていった。
  賑やかな街の景色が、涙で滲む。こんなところで泣いてたまるか……母の命は必ず救う。家族の明るい未来を、病気などで壊されてたまるか。父が亡くなったと知らされた日の、B子の泣き顔を思い出した。もうあんな光景は見たくない。
 病院につくと、矢も盾もたまらずに医師の元へ駆け寄った。
「先生、母さんが血を吐いた! お金なら持ってきたから、早く特効薬を売ってくれよ!」
 その鬼気迫るA太の表情に、医師は少し怯えながらもすっと立ち上がった。
 「……どれ、お金を見せなさい」
「ほら、これだ。言われた通りの金額だぞ!」
  病院の冷たい床に、くしゃくしゃになった金が叩きつけられる。たしかに、医師が以前A太に告げた金額だった。とても無理だと思ってふっかけた金額だったが、まさか本当に貯めてくるとは――。
  そこで医師の心が揺らいだ。貧困層が更に増え続けているからか、ここのところどうも稼ぎがよろしくない。A太に売る約束をしていた特効薬は、貴重品なのでもっと値が釣り上がるまでそうそう売りたくはないのだ。そうすれば金持ち相手に、さらにふっかけることができる。
 「……いや、足りんな」医師は床に散らばる金から目をそらした。
 「はあ!? ちゃんと数えろよ! ほら、早くしてくれよ。俺は急いでいるんだ! 母さんが危ないんだよ!」
「あの薬はだいぶ前に値上がりしてしまってね。こんな金額じゃ全然足りない」
 「おい、ふざけるなよ! 頼むよ、なんでも言うこときくから。俺の身体、どこでも切って売ってくれてもいいからさ!」
 「どこも買ってくれないよ。誰かから借りてきたらどうだい」
  借りろ、と言われても父が死んで以来知り合い一人いなくなってしまった家庭である。誰の力も借りず、三人だけでつましく生きてきたのだ。
「じゃ、じゃあ後払いで……何年かけても必ず返すから」
 「君の妹の治療費だって、まだ返してもらってないんだ。そんな虫のいい話、二度も聞き入れる訳にはいかないね」
 A太は愕然とした。しかし、ここで失望している時間はないのだ。今すぐまとまった金を手に入れる方法を考えないといけない。
  そのとき、父の姿が頭をよぎった。今日は祭りの日。街には懐を温めた金持ち達がたくさんうろついているではないか……そうだ、父は失敗してしまったが、俺になら……。
  しかし、やはりできなかった。母を救うために母を裏切っても、誰も幸せになどならないのだ。
 「お願いだ、先生。この通りだから、薬を売ってくれ」いい案が浮かばず、A太はただただ頭を下げるばかりである。
 「無理なものは無理だね。とにかく、お金が用意できるまで売るわけにはいかな……」
  そのとき、医師の心で悪魔が囁いた。あの夜に見た、幼い身体が脳裏をよぎる。
 「……そうだ。君の妹のB子ちゃん。あの娘を私の元へ奉公に出さないか? そうすれば薬は、タダであげてやってもいい」医師は下卑た笑いを込めながら言った。
 「えっ……だ、だめだ。それはできない!」
「だったら売れないな。さあ、ここから出ていきなさい」
「お兄ちゃん、私は大丈夫だよ」
  背後からの声に、A太は素早く振り向いた。病院の玄関に、いつの間にかB子が立っていたのだ。
「お前、どうしてここに……」
 「先生、私を買ってください」
  B子は医師の前に歩み寄ると、小さく頭を下げた。
 「B子、お前、一体何を……」
 「だって、もうそれしかないんでしょ? そうしないと、お母さんの病気治せないんでしょう?」
  医師の顔に、再び品のない笑顔が戻る。あの夜と同じ舐るような視線が、B子の全身にぶつけられる。B子の両肩を強く掴んだ。
「お前、ふざけるんじゃない。自分が何を言っているのかわかっているのか? 俺達、離れ離れになってしまうんだぞ。もう会えなくなってしまうんだぞ!」
  A太にもわかっていた。決しておふざけで言っているのではない。B子の決意は固いのだと。しかし、その意思を汲み取ってやることはできない。あの医師を見ればわかる。B子がもし奉公に出されてしまえば、どんな目に合うのかということを。いや、自分の想像をはるかに超えるような、残酷な日々が待ち受けているに違いない。
 しかし、B子は気丈に努めて言った。
 「お兄ちゃん、お母さんを治すためにたくさん苦労してきたんだから、今度は私が頑張る番なんだよ。大丈夫、お母さんが、言ってたじゃない。辛くても頑張り続ければ、いつかは家族と楽しく暮らしていけるんだって」
  B子は笑顔を浮かべていたが、栄養不足でやせ細った身体がぷるぷると震えていた。目元には涙が溜まっている。
 「ほら、B子ちゃん本人も望んでいるんだ。これで決まりかな。なに、悪いようにはしないさ。先生が毎日たっぷりかわいがってあげるからね」医師はヒッヒッヒと笑っていた。
 「お兄ちゃん、今までありがとう。いつになるかわからないけれど、私がおうちに戻ってきたら……そのときは今度こそ、みんなでりんご飴食べよ?」 それから堰を切ったように、B子の小さな瞳からポロポロと涙がこぼれた。
 「……先生、言ってくれ。いくら足りないんだ? あといくらあったら、薬を売ってもらえるんだよ!」
「そうだねえ、B子ちゃんを買う値段と相応と考えれば……」医師は頭のなかで算盤を弾く。
「うん、百円かな。でも、そんな金すぐには用意できないだろう? 君達にそんな金をくれる人なんていないだろう」
  百円! 百円百円百円……! その百円さえあれば、母も、妹も救えるのに!
  A太は叫んだ。誰か、百円を恵んでくれる優しい人はいないのか!
 俺達を救ってくれる神はいないのか! 家族はここで終わってしまうのか?
  そう、百円でいい、百円でいいんだ! 誰か、誰か!!


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実験小説「貧しい兄妹」

星井七億

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星井七億

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