◯◯だった自分を好きになるべきか?

 先日、ネット上のとある大きな話題に関する私感を、自分の貧しかった子供時代と紐付けて語ったところ、想定していたよりもはるかに多くの方に目に留まることとなった。
 それに伴う反響では様々なご意見を拝聴させていただいたのだが、その中にはただただ単純に、こう記されているものがいくつか見受けられた。

「貧乏だった自分が好きなだけだろ」

 かつて貧しい時代を送ったことのある人間がそれを周囲に詳らかにして、さらに広く伝えようとした、意図せず広く伝わった場合、このような言葉を投げつけられることは、何も珍しいことではない。
 多様な解釈ができる言葉であり、どういったものに対する言及なのかにもよるけれど、こういったケースの場合は大抵「不幸だった自分を晒して、周囲から頑張ったねと言ってもらいたい、可哀想だと思ってもらいたい」という所謂「不幸自慢」「かわいそうな俺アピール」系だと捉えられている可能性が極めて高い。
 僕はこの言葉を投げつける人間の感情や意図よりもまず、自分のことをあらためて考え、問いかけてみた。
「お前は今、『かつて貧しかった自分』が好きか?」
 自分のことの全てを理解できているわけではないけれど、僕なりによくよく考えてみても、たいして考えてなかった頃と答えは変わらなかった。
「いいえ」

 もしも、「食うに事を欠き枕を噛んで飢えを凌ぐ幼少期を送った自分」をなかったことにして「人並みの、もしくは豊かな資本に囲まれて育った自分」を選び直せるのなら、僕はきっと迷わず選ぶだろう。結果として今の自分とは全く違うような人間に生まれ変わったとしても、そこに「豊かさに囲まれたがゆえの苦難」が待ち受けていたとしても、僕はそれを選ぶかもしれない。
 いい歳していつまで昔を引きずって誰かを妬んでいるんだと思われるかもしれないし、いい加減今の自分を受け入れろ、生まれ育った環境なんて関係ない、人生はその人次第なんだからどんな自分になろうがそれは全て自己責任だ、みっともない、甘えるなという言葉もあるだろう。そしてそれらは部分的にだったり、誰かの人生に於いては正解や正論だったりして、いくつかは僕の中にもきっとあるに違いないものなのだろう。
 それはわかっている。不可能なのは重々承知だ。だから受け入れて生きている。今の自分が培ってきたもので、自分に配られる手札だけで、不正を働くこと無く生きている。私以外私じゃないのだ。抗ったって変わるものではない。

 もしも……先程からファンタジー的な「もしも」を繰り返して申し訳ないけれど、僕が過去に行くことができて、お金が無くて晩ご飯を食べられずお腹を空かせて泣いている自分に会ったなら、僕は間違いなく食事を恵むだろうし、少しは豊かになった生活を送らせることができるのなら、きっとそうするのだ。それで未来にどんな変化が起ころうとも、わかりえないことを考えるより目の前で苦しんでいる自分を助けてあげたい。決して「僕は苦しんでいる君が好きだよ!」「今は苦しいだろうけれど、いつかそんな自分を好きになってね!」なんて、未来に安易な希望を持たせるだけの言葉は口が裂けたって言えないのだ。だって苦しいのを知ってるのだから。そんな言葉はいいから、なにか食べるものをくれというのが、その子の心からの声だということを誰よりも知っているのだから。

 恥ずかしながら僕はこの歳になっても、誰かとのコミュニケーションの中で「個人の努力ではとても補えない、生来の環境をもたらした結果の差」にぶつかったとき、嫉妬の感情が沸き起こるのを止めることができない。さすがにそれを即座に言動に移すほど単純ではないけれど、コミュニケーションの流れ次第では自分の貧困と絡めてマウントを取るようなことを言ってしまうことがある。そのとき、たとえ相手が不快に思っていなかったとしても、激しい自己嫌悪に陥ることがある。
 それをすることでお前は何を求めた。自分でどうこうできない「差」なんて誰にでもあるのに、それをあの場でわざわざ突き付けて一体誰が幸せになるのだ……「貧しかった頃を経過した自分」の姿がこの有様ならば、なにをどうすれば胸張って自分が好きだと言えるだろうか。僕にできるのは今後の振る舞いに気を使うことくらいである。

 では自分を好きになるよう努めるべきか。
 あらゆる自分を好きになって、生きていけるならそれは理想なのかもしれない。だからこそ、過去の自分を乗り越えたり、赦したり、あらためたりして今をたくましく生きる人の物語は広く長く読み継がれる。
 けれど僕は傷ついた誰かに、「過去の自分を踏み台にしてたくましくなれ」とは言えない。今の自分にはないバイタリティだからだ。昔の自分を忌み嫌い続けたって、なかったことにしたいと思ったって、何の意味もないのはわかって充分わかっているのにだ。
 とても忘れられない暴行を受けて、それを告白した人に「でも暴行を受けた自分が好きなんでしょ?」とか「暴行を忘れてたくましくなれ!」ともとても言えない。「自分語りをして悦に入ってる」とも言われたけれど、「腹空かして苦しんでた俺カッコイー」「暴行された経験のある私タクマシー」と自分に酔えるほど屈強なバイタリティなんて、これから先も身に付けられる自信がない。「どんな過去もステイタスにして、人生の演出材料にできる自分」なんて、なれる人間のほうがはるかに少ないと思うのは僕が世間を知らなさすぎるのだろうか。
 大事に育てていた花が昨日まで咲いていたのに今日枯れた。そんなささいな悲しみでも誰かにとっては、死ぬまで心にしこりとなって残り続けることもあるのだ。

 忘れられるものなら忘れたい、自分をたくましくする材料にできるものならしてみたいのにそれができないまま生きて「いつまで引きずっているんだ」「自分に酔うな」と責められる人を何人も見てきた。ようやくたくましく生き始めたら、「ナルシストめ!」と責められる人も。
 もしも本当に自分と酔っていて、自分を語ることで悦に入ることが、その人にとって生きやすい「過去の自分」との向き合い方ならば、誰がそれを責められるだろう。その手段を奪ってついでに生き心地を奪ってみるか?
 僕は忘れられない昔の自分を抱える誰かに「過去の自分に対しては、このように接して生きろ」とは何ひとつ言えない。そこまで強くもなければ胸を張った結果を持ちあわせた人間でもない。何よりも、人それぞれだとしか言い様がないのだ。
 ただ、自分を好きになろうが嫌いになろうが、ひきずろうがたくましくあろうが酔っぱらおうが、それぞれにとって少しは生きやすくなる向き合い方を見つけられればそれでいいと思っている。気がついたとき自分を好きになれていたならめっけものである。
 それに、僕だってなにも自分の一切合切が嫌いなわけではない。好きな部分だって多いし、誰かに愛してもらえた部分も多い。叩けば埃の出る身体でも、そんな埃さえときに愛しく思うこともある。だから自分を生きていられる。あらゆる「自分」を抱え、折り合いを付けて生きているのは、きっとみんな一緒なのだから。


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星井七億

InterestedⅡ

コメント2件

過去の自分が受容出来ずに苦しんでいる人が沢山いるコトを考えると、 よっぽど良いコトかと。
自分に丸ごと当てはまるので思わず頷きながら読みました。
人の目を気にしずに生きる事なんて私には到底無理な話だけど、悦に浸るナルシストといわれようとそれに命救われたのだからこのまま進んでいこうと思いました。そう思わせてくれた文章でした。有り難うございました。
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