損得感情と選挙

 職場に高卒の男の子が新入社員として入った。今年で19歳になる彼は今回の参院選から選挙権を行使することが出来る。
 選挙だとか政治といった忌避されがちなお固い話題を、それも一回りも若い職場の人にするのはだいぶ勇気がいることではあったけれど、初めての投票活動をどういう心境で迎えているのか知りたくて、話し上手でもないくせにおしゃべりの最中で思わず「今度の選挙は投票行くの?」と訊ねてしまった。「行かない」というのが彼の答えだった。
 よくわからない、とか、誰に投票しても一緒、とか、期待できない、といった理由があるのか、それとも明確な意思を持っての白紙委任なのか、怪しまれない程度に理由を訪ねてみたら、返ってきたのは「損をしたくないから」という、あまりピンとこない言葉だった。
 投票というのは「自分に損をさせない人を選ぶ」ために行うものだと思っているので、投票が行かないことで損をすることはあっても、また投票に行ったとして、得する結果を得られないこと、損を招く結果が他者によって選ばれることはあったとしても、自分の投票活動そのものが自分に損失を与えることは、自分に損を招く相手を自分が知らずに選んでしまっていたということがない限り、多分無い。
 ではどこに損失を見出したのかと言うと、「自分が票を入れた人が負けたら損」とのことだった。「投票した結果選ばれるもの」ではなく「投票できる権利そのもの」に、損得を見出していたのだ。自分が票を入れる以上、確実に”勝てる”保証がないと嫌なのだと。負ける候補者に入れるのは「もったいない」なのだと。だったら最初から、権利など行使しないほうがマシなのだと。どんな政策に自分の未来を託したいかより、「勝てるか勝てないか」のほうが、彼にとっての優先事項だったのだ。
 投票行動が一種のギャンブルであることはどんな視点から見ても変わりはないし、思想信条主義主張より結果の是非に意志の全てが託されている賭け方が政治政局に存在するのは珍しい話ではない。それが個人の投票行動にまで及ぶことも宜なるかな、といった具合である。「なるほどね。私は一応行くけどね」とだけ言って、私はその話題をそこで打ち切った。


 メディアで報道されている今回の参院選の情勢分析を見ていると、個人的な是非はともかくあらかた予想通りというか、よほど偏った目を持たない限り、誰が予想してもこうなっちゃうよなといったような感想しか出てこない。
 途中結果を報道することが、最終結果に大きな影響をもたらすことも珍しくないので、情勢分析さえ見ていれば、接戦でもない限り上記の彼は「どこが勝てるか」にアタリを付けて投票することができるが、彼はきっとそれをしないだろう。言葉は悪いけれど、「誰に投票したいか/したくないか」より「勝てるか勝てないか」が投票の動機にくる人に、そんな労力を割く意識があるとは思えない。
 私が初めての選挙権を手にした2005年にちょうど郵政選挙が行われた。既知のように小泉首相率いる自民党の大勝で終わったこの選挙で、私が投じた候補者はあえなく落選した。先述の彼からすれば、私は「損」をした人間だ。
 しかし、私はその結果を「残念だ」とは思っても「損をした」とは思わなかった。いや、残念だと思うことすらなかったかもしれない。最初から、この候補は落ちるだろうなと思って入れたからだ。よって、その候補者に入れることにノリノリだったかといえば勿論そうではない。当選しないとわかっている人に自分の貴重な一票を投じるのは、かなり高い意識がないとなかなか難しい。当時の私にそこまで高い意識があったとはとても言い難いけれど、初めての投票くらい負け戦とわかっていても、自分の選んだ人にどうしても入れたかった。砂を噛むような一票だった。結果的にも何も残らないとわかりつつも、玉砕覚悟で飛び出して自爆した人に、それが損だったという感情はない。
 この人はきっと受かってくれるだろう、受からせたいと思って入れる人がほとんどだろうし、他の人達に入れたくないから、という思いで入れる人もいる。「私の一票程度では結果は変わらない」というのは、投票を棄権する人の理由としてかなり多い。それが「これだけ得票出来そうな人なら」に続くのか「この程度しか票を取れてないのなら」に続くのか人それぞれだけれど、私のように落ちるとわかる人に入れるくらいなら、勝てる方に入れて精神的負担を軽くしたい、あるいは最初から入れないほうがマシという思いもわからないではない。とはいえ、当落結果が望み通りにならなくても、得票率が大きな影響を持つことがあるという点で、落ちるとわかっていても自分の選んだ人に入れるという行動も全く意味が無いわけではない。
「死票」という言葉がある。悲しい言葉である。結果を出せなかった意思は全て、生きているとすら認識されない。あまりにも表現が後ろ向き過ぎる。もうちょっと軟着陸した表現に変えてほしい。「頑張ったで票」とか。

 あれから私も何度が選挙を経験して、票を投じた人が落ちたこともあれば受かったこともあり、比較的落ちることのほうが多いのだけれど、初めての選挙から10年余りで私の中で起きた最大の変化は、落ちるとわかっている人に票を入れることへの躊躇いや苦しみが、今となっては一切ないことだ。もちろん、受かってくれることに一縷の望みを持たないこともないのだけれど、昔より比較的穏やかに、この人に入れたいと思ったのなら、負け戦とわかっていても何ひとつ偽らず票を入れる。政治政局を学べば学ぶほどに、選挙の勝ち負けがより具体的なビジョンになって見えてくるし、そのぶん嫌なものを多く見つめなければならなくなるのだけれど、悩んで選んだ結果なら、自己満足に終わるとわかっていても肯定したい。一票の持つ重みは、数字ではなく個人の意志の重みであることを、感じ続けていたいからである。数字に損得は存在しても、やりたいことをやった人間の意志に損は生まれないからである。
 だけどやっぱり、本音は勝ち戦に臨みたいもの。得をしたいもの。

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星井七億

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