ドラマ「偽装の夫婦」の粗さに思う

 七年前に横浜へ引っ越してからというものの、連続ドラマというものを全く観なくなってしまった。忙しいとか、タイミングを逃すといったことが続いたせいでもあるけれど、根本的に週に一度、決まった時間に受動的なコンテンツを受け取るというということが苦手なのかもしれない。この七年間でリアルタイムに全話観ることができたのは「あまちゃん」くらいで、あとは特番が面白かったのでDVDを借りてシーズン1、2をぶっ通しで観た「リーガル・ハイ」、松井珠理奈にハマったことから観た「マジすか学園」だけである。

 そんな私でも最近は時間的に余裕ができたので、秋からの新ドラマをひとつ、観てみることにした。設定が気になっていた日本テレビの新ドラマ「偽装の夫婦」である。主演は天海祐希。脚本を務めるのは「女王の教室」「家政婦のミタ」などの人気作、話題作を多数世に送り出したベテラン・遊川和彦。遊川氏の作品は多く観たわけではないけれど、94年に放送した中山美穂主演の「もしも願いが叶うなら」はとても良いドラマだったと記憶している。
 簡単な概要を説明する。図書館司書として働く人間嫌いのヒロ(天海祐希)は、二十五年前に一夜を共にしたきりの元彼氏・超治(沢村一樹)と再開し、彼から偽装結婚をしてくれと頼まれる。超治の母はガンを患って余命半年であり、亡くなる前に安心させたいというのだ。そこでさらに、超治は自分がゲイであったことをヒロにカミングアウトする。当初は強硬に突っぱねたヒロだったものの、諸事情によりお金と住処が必要になってしまい、また超治の人柄にも触れたことから、偽装の夫婦生活を始めることになる。

 魅力的なのはあらすじだけ、なんて作品に留まらない。そこはやはり輝かしい実績を残すベテランの手腕だ。設定も、キャラ立ても、シナリオの運びも安定感があって面白く、ぐいぐいと続きを追わせるだけの力がある。まだ二話目であるものの、そこそこ笑わせ、それなりに感動を呼び、随所を見れば物語の骨格に成りうるある程度のメッセージ性もあるのだろうと思わせる。
 特に第一話のラストは非常にインパクトを伴っていて、一気に多くの視聴者の関心を惹いたのではないだろうか。ヒロの務める図書館に訪れる足が不自由なシングルマザー・しおり(内田有紀)は、幼い娘が自身の足を気遣って幼稚園の運動会に行くのを躊躇っていたところを、ヒロが積極的にサポートしたこと(またそれ以外のあらゆる場面)からヒロに惚れ込み、第一話のラストシーンでは娘がいる前でヒロに愛の告白をする。ここで話は次回にもつれ込むのだが、このシーンに百合豚の私としては「そっ、そんな、内田っ、内田有紀が、天海祐希に、こくっ、告白っ、それも、年下、年下からの、攻めっ、年下攻めっ、おっ、お母さーん!!」と叫ばずにはいられなかった。今期ドラマのTENCAはとったようなものだとおもった。第二話の視聴は決まっていた。

 それでも、この第一話に不安な要素がなかったかといえばそうではない。これは私のツイッターのTLや、LGBT関連のメディアでも言及されていたことなのだけれど、私自身も少し難を覚えたのは、作中におけるゲイの描写である。
 今作のメインキャラである超治は先述の通りゲイなのだが、普段こそ一般的な男性風の口調なのだけれど、感情が高ぶるとなぜかオネエ口調になるのだ。
 ゲイ=オネエというステレオタイプな設定が気掛かりではあるけれどこれが超治というひとつのキャラとしての個性付けなら、まあ看過できないレベルではないという気がする。
 けれど問題は、超治以外のゲイ達についてだ。といっても現状、超治が喫茶店で自身のセクシャリティを主人公にカミングアウトする流れの前後にしか登場していないのだが、彼らもまたなぜかオネエ口調なのだ。
 この時点で、脚本を務める遊川氏にとってゲイ=みんなオネエというステレオタイプな偏見が根強く存在するのだろうか、単にわかりやすいキャラ立てのためなのだろうか、それとも見えない何かに配慮しているのか、判断し難いものがあった。少なくとも私の観測範囲において、オネエ口調でしゃべるゲイはマイノリティの中のマイノリティだ。マイノリティの存在が物語の主幹に支えるこの物語において、マイノリティ描写に於ける掘り下げの「粗さ」は致命傷だと思うけれど、この時点ではまだ保留するしかないと踏んだ。

 その「粗さ」への疑念がさらに募るのは第二話。あの内田有紀演じるしおりのキャラクター設定である。彼女はなぜ同性のヒロに告白したのか。それは彼女が女性しか愛せないからである。では彼女はレズビアンなのか。それはまだ判断できない。しおりは作中で、自分が女性しか愛せなくなったのは元夫からの激しい暴力に見舞われたことにより、男性不信に陥ったからだと言った。その暴力は、足に障がいを抱えてしまうほどにまで過酷なものだった。
 ではしおりという存在は、何度となく言われ続けてきた「レズビアンみんな、男に辛い思い出があるんだろ?(男の本当の良さを知らないんだろ?)」という、低次元のド偏見に基づいて作られたキャラクターなのだろうか。
 しおりは元々性別にこだわらず愛することができる人間で、元夫からの暴力を受けたことにより今は男性に対する愛を失ってしまい、女性しか愛せなくなってしまったのか。元々レズビアンで、過去の出来事がトリガーとなって彼女に本来の性自認を促したのか(それを男性不信によるものだと思い込んでいるのか)、男性不信によって女性にしか心が開けていないだけで、そもそものセクシャリティはストレートなのか、もしくは主人公への恋愛感情自体が錯覚なのか、それとも、それとも……外野が設定を突き詰め始めたらキリがない。人が人を愛する理由はそれぞれであり、それが多様性というものだからだ。
 仮に遊川氏がしおりというキャラを、レズビアンに対する偏見によって生み出したものだったとしても、遊川氏の浅薄さを責めることはできても、しおりというキャラを否定することはできない、というかしてはならないだろう。セクシャリティはなにも先天的なものばかりではない。この世には「男性不信から後天的なレズビアンになった人」が僅かかもしれず実在するのだから。
 だからまだ、これは偏見に基づいて書かれた作品だと判断するのはあまりにも時期尚早なのである。けれど今後作中で、オネエ口調ではないゲイの存在や、男性不信を介在しないレズビアンの存在が出てくるなどするか、もしくはすでに出ているキャラの設定を偏った視点に寄ることなくシナリオに大きく活かしきれない限りは、「偽装の夫婦」はセクシャルマイノリティに対する見識や扱いが粗いだけのドラマで終わってしまう。とはいえまだ二話なのでいくらでも可能性はある。今後も注視していきたい。

 ここから先は仮定の話だ。そもそもなぜ、現段階でセクシャルマイノリティへの見識の粗さが残されているこのドラマが書かれたのか。
 私はここ数ヶ月、様々なメディアで私自身あまり好意的に捉えられないフレーズを多く目にしてきた。
 それは「LGBTブーム」という言葉である。LGBT系のタレントがテレビなどで台頭し、ビジネスの分野に於いてもLGBTは金脈だという認識が広がって、これといった理解や知識をきちんと深めないまま、形だけの支援を表明する企業や個人も現れている。
 ブームという言葉が怖いのは、やはり一過性で終わってしまうという不安からだ。絶えず促され続けなければならないLGBTへの理解や存在の認識が、他者から暴力的な消費という形で扱われて、いつしか見向きもされなくなるとなったらこんなに恐ろしいことはない。人は去った流行りに対して極端に冷酷である。もちろん、このブームを通してLGBTへの理解が広く根付き、ブームと呼ぶ必要がないくらい一般化されればそれに越したことはないし、そうしていくべきなのだけれど。
 仮に「偽装の夫婦」が、この「LGBTブーム」を意識して書かれたものだったとしたならば。安易に流行りに乗っかって話題性をかっさらうことだけを目的に書かれたものだったとしたならば。そうなると、現時点で垣間見える「偏見なのかそうでないのかわからないもの」の正体が見えてくるのではないかと思うのだ。しかし何度も言うが仮定は仮定。不完全燃焼な結論だがもっとも今後の展開を覗かないことには、やはりなんとも言えないし、最後まで観ても結局判断に困る可能性だって充分にある。

 なお、当初この記事の後半では「偽装の夫婦」の粗さを通して、フジテレビ論的なものを書く予定だったのだけれど、「偽装の夫婦」はフジテレビではなく日本テレビであることをギリギリで思い出した。

この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?気軽にクリエイターを支援できます。

34

星井七億

コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。