「よくわからない権威」を睨む

 朗報である。この度、拙著「もしも矢沢永吉が『桃太郎』を朗読したら」が、第23回小泉義一ユーモア文化賞の審査員特別賞を受賞した。同賞は昭和の初期に活躍した劇作家、小泉義一の功績を讃えて1993年に始まった賞であり、年に一度、対象期間に刊行された単行本の中からユニークな発想、エスプリの効いた作品に与えられるもので、これまでに受賞者の中には多くの著名なユーモア作家が名を連ねている。賞金は100万円。
 私のような若輩者の作品がこのような栄誉ある賞を受賞できたのはひとえに、私の品性下劣なブログとテキストを見捨てることなく読み続け、応援してくれた読者の方々、また刊行に尽力・助力してくれた方々の存在無くしてはありえない。ここに感謝の意を述べると共に、今回の結果に驕ることなく、これからの活動により一層、切磋琢磨していくことをここに誓いたい。この度は本当にありがとうございました。


 どうしてこのような自慢から始まったのかというと、そんな賞は存在しないからである。当然、小泉義一などという昭和の初期に活躍した劇作家は存在しないし、賞金100万円は私の願望だ。
 とはいえ、騙された方も多いのではなかろうか。「よくわかんないけど七億さんSUGEEEE!」と思ったのではないだろうか。私も書いていて「よくわかんないけど俺SUGEEEE!」となったくらいである。
 どうして私達はよくわからない権威に対し、よくわかりもしないくせに「すごい」と思ってしまうのか。高度なリテラシー能力を求められる昨今に於いても、なぜ「よくわかんないけどなんかすごい」が顔を出してしまうのか。

 私は文学"賞"オタク(not文学オタク)であり、先日も「松本清張賞」の最終候補が発表されたので確認してみたのだが、その中にひとり、とても若いのに出版経験のある候補者がいたので、気になって軽く調べてみた。「阿野冠」というその候補者は本名を「加藤冠」といい、わずか12歳でR-1ぐらんぷりの準々決勝に進出、その後ジャニーズ事務所に所属し、在所中に小説家デビュー。高校受験をきっかけにジャニーズを退所し、高校生作家として処女作を出版、その後慶応義塾大学へ進学……とまあなんとも高スペックでバイタリティのある若者であった。
 こりゃ面白いのが候補に残ったぞと私はついテンションが上がってしまい、その旨をツイッターでつぶやいたところ、これがジャニヲタを中心に広く拡散されてしまった。その反応を逐一追ってみたのだが、「カトカンすごい!」「カトカン立派!」といった好意的な言葉が目立ち、私もなんだか嬉しくなってしまった。
 とはいっても私は文学賞オタではあってもジャニヲタではないので、同じ対象に喜びを感じていてもその意識は私とジャニヲタではまるで違い、私は「松本清張賞の最終候補によくわからない元ジャニーズが!」、ジャニヲタは「元ジャニーズの加藤が松本清張賞というよくわからない文学賞の最終候補に!」なのだ。それは「松本清張賞」がどマイナーとまでは言わずとも、相当な読書家でもなければ一般的な知名度が高いとも言えない文学賞だからである(最近は山口恵以子が松本賞作家としてバラエティ番組によく顔を出しているが、賞の知名度に貢献しているとは言い難い)。実際にジャニヲタの中には松本清張賞がどのような賞なのかを調べている人の姿も多く見受けられたし、なんなら「こんな有名な作家達の中から選ばれるなんて!」と選考委員の名前を羅列しているような、文学賞の基本システムすらわかっていない人もいた。
 そうなると、ジャニヲタ達は自分達がよくわかっていない松本清張賞の何に対し権威を見出し、カトカンを「すごい」と讃えたのか。もしも松本清張賞が何の威厳もないような賞だった場合、という想定はなかったのだろうか。あらかじめ言及しておくが、松本清張賞の最終候補に残ること自体は普通にすごいことである。

 私達はよほどの興味を持たない限り、権威に対し疑問を抱かない。その素姓を解体し、構造と本質を詳らかにすることをしない。差し出されるがままの「すごさ」を受け入れる。特に自分の知識や能力が追いつきそうもない分野に対しては、鼻水を垂らして「しゅごーい」と呟くか、よくわからない嫉妬を燃やして足を引っ張ろうとするかのどちらかである。科学という分野に関しては特にそれが顕著であり、それゆえに私達は万能細胞の存在に夢を見て、欺かれた。「科学的な裏付けがある」「学会で発表された」と言われれば、論文や研究報告を精査することなく鵜呑みにしてしまうし、よって「あいつらは科学と経済を理解してない」と口にする人ほど、その言葉の効力を啓示のように信じているだけで自ら科学的・経済的なデータを差し出そうとはしない。
 毎年のように、今年こそはノーベル文学賞だと言われる日本人作家や、平和賞の微妙な結果に国内からネガティブな反応が出ても、科学分野の賞に関しては誰も異論を口を挟まない。ある程度検証・実証され尽くした信頼性の強い結果に対するものだからだというよりは、その信頼性にメスを入れるための能力が、一般人の我々にはないからである。先述の日本人作家などは実績だけを見れば受賞してもおかしくない存在なのだけれど、それでも受賞することに対しネガティブな反論が生まれるのは、創作芸術に対しては素人でも感性を頼りにケチを付けることが、”ある程度”まではできるからだ。「科学的な裏付けがあるデータ様」に対し、それは絶対に許されない。たとえ、実は誤ったデータであったと後から実証される可能性がいくつ残されていたとしてもだ。

 重ねて作家関連の話になるが、芥川賞作家の中村文則が2014年に「デイビッド・グーディス賞」なるアメリカの文学賞を受賞して話題となった。メディアで多く紹介され、単行本の宣伝にも使われ、中村文則は国内での地位を一気に高めてブレイクするに至る(もっとも受賞以前から中村文則作品の海外評価はとても高かったのだが)。
 しかし、繰り返すように文学賞オタクだった私は、この「デイビッド・グーディス賞」という賞の名前をそれまで一度も聞いたことがなかったため、ちょっと調べてみることにした。するとこの「デイビッド・グーディス賞」、アメリカのノワール小説オタク達の間で行われるイベント「NOIR CON」内で授与される賞であり、文学賞としての歴史は浅く、本場アメリカですらその知名度は低い。これからどうなるかはわからないが、受賞当時に権威があったかと言われれば、ちょっと心許ない。それでも商売の道具としては、充分過ぎる力を持っていた。
 私達は海外からの太鼓判に弱い。オリコンチャートの作品より、ビルボードTOP200に入っている作品の方を、何の批評性も持たずに「素晴らしい」と褒め称えてしまう。海外の大学で色々学んだと言われれば、たとえそれが嘘であったとしても、声と顔の良さでテレビ番組のコメンテーターを任せてしまう。もっとも誰がいつ身を持ち崩してもおかしくない時代、生きていくために自分に虚飾を施し見栄を張ることが必ずしも悪いことではない。履歴書に「Microsoftを設立してiPhoneを発明しました」と書いても、書類選考こそ落とされても嘘つけこの野郎と咎められたことはない。
 広告を見ているとモンドセレクション賞受賞という宣伝文句を多く見かけ、金賞という言葉がそのまま金のごとく権威として光り続けているけれど、審査料を払って審査してもらい一定の基準を満たせば水道水でももらえるこの賞も、過去には年に3000品目もの商品に認証を与えているガバガバコンテンツである。それでも実情を知らない人からすれば、「よくわからないけどすごいもの」なのだ。
 オタクと権威は相性が悪い。オタク的趣味とはメインストリームから外れた場所に生まれるものであり、メインストリームで支持を得るための力を権威を呼ぶからだ。古来よりオタク的文化は権威からの抑圧を撥ね付けるようにして育ってきた。アングラ時代の2ch、及び匿名文化が力を得たのは、オタクに向けて権威に対しカウンターをお見舞いできる土壌を提供したからである。オタク的文化はおのれの身を危うくしない限り、徹底して反権威を貫いてほしいものだけれど、どうも権威が揉み手で擦り寄ってくると、受け手思想のオタクはすぐ鼻の下を伸ばして、それを好意的に受け入れてしまう。だから元総理大臣は美少女ドール漫画を読んでいるだけで秋葉原に巨大ポスターを貼られるし、女児向けアニメのタイトルをツイートしただけで、元大阪市長は好感度を獲得できた。即落ち2コマよりちょろいものだ。ちょっと名が通っているだけできちんと調べてみればその批評能力に難があるとわかる映画評論家が深夜アニメの劇場版を褒めただけで、「よくわからないけど有名な映画評論家が絶賛した!」と諸手を上げて喜んでいたオタク達の姿は醜悪以外の何物でもなかった。計画性もなく権威に尻尾を振るオタクほど格好悪い生き物はいない。

 権威というのは自分をより良く見せる衣であり、時として他人を欺くための道具になる。私達は権威を解体する努力を放棄しておきながら、事実を伝えられたときに騙されたという顔をしてしまう。
 五年前、神話とまで崇められていた安全の権威的象徴が、その脆弱性を露呈したことで国民を裏切り続けていたとわかったとき、権威的な人達がそれを煙に巻くために「よくわからないけどすごい言葉」を多く用いたとき、権威というものはその立派なハリボテがいつ倒れてもおかしくないことを学んだ。
『遺言』や『殺人犯はそこにいる』などの名著で知られ、自らの足で事実を追い求め続けて罪なき人の汚名をすすぎ、権威の欺瞞を白日の下に晒してきた現代ジャーナリズムの雄・清水潔氏はツイッターで、政府からの報道に対する圧力の存在を明らかにした。報道の忘れてはならない義務のひとつは権力の監視である。権威・権力がその舵取りを誤らぬように見つめ続けることが報道の使命なので、そこに権威からの息がかかるということは決してあってはならないのだ。

「よくわからない権威」はそのよくわからなさと付随する威圧感ゆえ、本来なら備わっているべき「疑う」という行動を私達から奪っていく。時としてそれは暴力的ですらあり、時に遠くから私達を嘲笑っている。そして最後に、大切な物まで奪っていくこともある。
 もっとも、あれもこれも疑えとなるとキリがないしヒマもない。けれど、せめて自分の生活の範囲内に足を踏み入れてきた権威に対し「なぜすごいのか」「本当にすごいのか」という視点を持ち、「よくわからないけどすごいもの」を睨み続ける目は、忘れずに持っていたい。
 ところで先述のように、私は100万円を手に入れたいという願望を持っている。可及的速やかに私の口座へこれを振り込んでくれたら、あの超有名人が絶賛したという霊験あらたかなありがたいお水を……。

 

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星井七億

コメント3件

よっ、ホラッチョ!
これだけリズムよくまくしたてられたら、100万振り込んじゃう人が出てくるかも〜〜*\(^o^)/*
口座番号が書いてありませんよ?(^^)
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