難民差別イラストを見て思い出したこと

安全に暮らしたい
清潔な暮らしを送りたい
美味しいものが食べたい
自由に遊びに行きたい
おしゃれがしたい
贅沢がしたい
何の苦労もなく
生きたいように生きていきたい
他人の金で。
そうだ難民しよう!

 これはとある漫画家がフェイスブックに投稿して以来、ネット上で話題になっているイラストに書かれていた言葉だ。
 実在するシリア難民の少女の写真をイラスト化し、その表情は実際の写真よりもやや卑しい笑みを携えている。先述の言葉は作者である漫画家によって独自に添えられたものであり、本人によるフェイスブックでの記述から見てもこのイラストは難民を糾弾する意図で書かれたものであって、この少女が本当にそんなことを思っているのか当人以外には永遠にわかりかねることだが、僕はこのイラストに酷く差別的な印象を受けた。
 シリア難民の受け入れ問題については一家言を持てるほど実情に明るくないのでここではその諸問題に言及するつもりはない。
 それらよりも僕が考えたのは、窮状にいる子供が大人の手によって不敵な笑みを携えられたことと、それらに添えられた言葉についてである。
 幼い頃をぼんやりと思い出したのだ。

 ここでも何度となく話してはいるけれど、僕はとにかく貧しい母子家庭に育った。割れた窓ガラスをガムテープやビニール袋で補強したり、台風がくれば風呂場の壁が吹き飛んだり、たくさんのシロアリやゴキブリがひっきり無しに飛び回るような家で生活し、食うに事を欠く日は珍しくなく、寝転がって枕や鉛筆を噛み続けて飢えを紛らわす日なんてざらであった。ゴムが伸びきったズボンと穴の空いたTシャツを着ていた。
 八歳の誕生日。僕には何もなかった。ケーキもプレゼントも、何もなかった。テレビは言う。本は言う。クラスメートは言う。誕生日には「何か」があるのだ。けれど僕には何もなかった。お金がないのが原因だとはわかっていて、ねだったところでどうにもならないので、僕はお祝いの言葉だけをもらい、他には何も欲しがらなかった。
 ある日、晩ご飯がなく腹を空かせ、母が働いているスーパーへ向かったが、母はいなかった。夜はどこか別の仕事へ出ていたのだ。不憫に思った他の店員が、惣菜コーナーにあった何かを買ってくれた。何かを食べながら暗い家路を辿っていると、自分達と違い人並みの家庭では当たり前のように毎日食事が用意されているのだということを思って、金が無いからとはわかっていても、納得することができなかった。

 次第に接触する他人が増えて自分の家庭と他者の、”人並みの家庭”との違いが浮き彫りになっていくうちに、僕が抱いていた納得のできなさや理不尽だといった感情はますます大きくなった。けれど、それを一体どう処理すればいいだろうか。家にお金がないことを嘆いて何かを求めたところで、朝晩なく働く母を困らせ、怒らせ、追い詰めて、不甲斐なく思わせるだけである。
 他所と比べたくなかった。無意味な行為だし、周りの人間達が当たり前に持っているものを、自分が持ってない、持たせてもらうことなく生きているのだと自覚してしまうと、自分がひどくみじめな生き物に思えてきた。誰かに助けてほしいと思った。とんでもない大金持ちが現れて、何の見返りもなく助けてくれないだろうかなんて妄想はいつだってしていた。けれどそれは、ますます惨めになるだけだろう。 
 やがて僕は自分の中にある他人への「妬み」や「羨望」を徹底的に殺すことにした。うらやましくなんかない。ご飯が食べられないくらいどうってことない。クリスマスプレゼントなんて必要ない。汚い家に住むのがなんだ。穴が空いた不潔な服を着ているのがどうした。兄妹三人で一人分の文房具を使いまわして、それをクラスメートからからかわれる程度がなんだというんだ。そもそもわがままを言ったらほしい物が出てくるわけでもないのに、意味が無いじゃないか。いいやそれこそ、自分の欲求に『他人の力』で叶えてもらうなんて、助けてほしいとか、施しを求めたりとか、卑しいにもほどがある。
 誰かをうらやましがることは、わがままを言うのは、自分の不遇を嘆いて何かを欲しがることは甘えであり、自分という存在を、尊厳を損ねる行為であり、それを口にする人間は『たとえ子供であっても』卑しい気持ちを抱えた人間に違いない!
 そのときこそ幼さゆえに、それが単なる強がりや痩せ我慢だなんてわかってなかったし、もちろんここまで明確に言語化できていたわけではないけれど、晩飯時に枕を噛んで飢えをしのぎながら、幼い僕はそんなことを考えていた。

 成長するにつれて妬み嫉みの発露に対するバランスをある程度人並みに持つようになり、自分で働き金を稼ぎ、清潔な服と毎日の食事に困らないようになり、様々な環境で育ってきた人達に触れて、あの頃の自分を思うたびに複雑な気持ちになる。
 自分の欲望や本音を徹底的に殺そうとしたのが正解だったのか誤りだったのかは今でもわからない。それが今の自分を作っているのなら簡単に否定はしたくない。目の前に昔の僕と同じような子供がいたとして、救いの手を差し伸べることはできたとしても、たとえ僕がどんなに言いたくとも彼らの置かれた立場や環境を考慮せずには「もっとわがままを言っていいんだよ。助けを求めていいんだよ。人を羨ましがっていいんだよ」と無責任に言えない。
 それでも確実にわかっていることは、それが経済面でも安全面でも衛生面でも、自分の力でどうすることもできないほどひどい窮状に置かれた幼い子供が、あれがほしいこれが羨ましいどうして自分はこんなに恵まれてないんだ悔しい悔しいと泣き叫んでも、それによってその子が人間として何かを損なうことなんてなく、卑しくもなんでもないということだ。たとえその欲求が『他人の金』を介したものであったとしても。だって恵まれた環境で育ちたくましく生きている大人ですら、そうやって泣き叫たくなることが当たり前にあって、それは心が自分を生かそうと訴えているのと一緒なのだから。

 貧乏な母子家庭の生まれ、というだけでは難民の人々とは比較することすらおこがましいかもしれないけれど、あえて並べて話させてもらう。
 難民差別のイラストに描かれた少女の笑みと言葉を見て僕が昔を思い出したのは、あの絵の少女がいつかの自分が嫌悪していた存在だったからだ。幼かった自分がなりたくなかった「架空の敵」だったからだ。
 あの少女の顔に加えられたいびつで下卑た笑みは「他人の力を介してでも人並みのものを欲しがっていた子供」の象徴だった。欲求に抗っていたあの頃の僕にとって。そして今、あのイラストを支持する人間達の中で。
 そしてそこに添えられた、作者の独自解釈による言葉の数々が、あの少女が胸に抱えている言葉と仮にそれほど違ってなかったとしても、今の僕にはもう、それが卑しいだとか思って殊更に批判するような気にはなれない。誰もが持ちうる感情であり、いつか自分が無理矢理に飲み込み続けた言葉なのだから。
 繰り返すけれど、僕はあのイラストを介して難民問題について言及する気はない。事実として誤ったイラストなのかそうでないのか、その辺はどうでもいい。僕は無知なので「自分の価値観と照らしあわせた結果、差別的・暴力的に見えて不快」という極めて主観的かつ生理的な嫌悪感以外で、あのイラストに評価はくだせない。創作者個人のモラルについては興味が無い。因果応報がくるならば、僕が放っておいてもくるのだろう。

 だけど、あらかじめ明確な思想や主張が込められたイラストにこんなツッコミを入れるのはあまりにも野暮なのかもしれないけれど、追い詰められた人間ましてや子供が何かを羨ましがり、命と隣り合わせの部分を本気で求めているときに、たとえそれが他人の金を介していたとしても、あそこまで上手に笑うことはできない。笑っていられる余裕なんてない。
 あのイラストが視界に入り、少女の偽りの笑みと、いつか自分が戦った架空の敵と対峙したとき、少ししょっぱい枕の味を思い出したのだ。

 

この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?気軽にクリエイターを支援できます。

162

星井七億

また読み返したいnote

お気に入りnoteのスクラップマガジン。
1つのマガジンに含まれています

コメント1件

良いところは良く、悪いところは悪いのであって、一緒くたにして相殺すべきでない、と思う。
コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。