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山でダラダラするか、街でダラダラするか

久しぶりにパートナーの母とその旦那さんのお家に遊びに行って来た。
義母たちはパリから電車を乗り継ぎ5時間、さらに最寄りの駅から車で30分ほどの山の上に住んでいる。人口6人の小さな村だ。

猫4匹と暮らす大きな家にはお庭とテラス、それに屋根裏部屋と地下室があって、遊びに行くといつも屋根裏部屋に泊まっている。
一度、ノミが大量発生して全身を噛まれてからしばらく訪ねていなかったのだけど、今年はノミ対策をしっかりされたようで、去年のように足が水玉模様になることはなかった。



家の前には細い川が流れていて、屋根裏部屋の窓からも水の音が聞こえる。
隣人の立てる音や車の音、大声を出す歩行者の声、街の雑音で夜中に何度も目が覚めるパリのアパートとは違い、山の家では朝まで眠りが途切れることがなく、いつもならお昼ごろになってようやく起き出すのだが、今回は少し違った。
初日の朝、どこかで誰かがアラームを鳴らしている音で目が覚める。ピピピピ、ピピピピ、ピピピピ。機械音が規則的に鳴り響く。しかし山の家に隣人などいない。繰り返す甲高い音に耳を澄まし、ようやくそれが鳥の鳴き声だと気がついた。去年は聞かなかった鳴き声だ。アラームと聞き違うほどにあくまで規則的。機械音のような高音が耳につき、毎朝こちらまで規則正しく目が覚めてしまった。
同じリズミカルな音でも、こここここ、こここここ、とキツツキが木の幹を突く音は温かで気持ち良く、鳥にもいろんな音があるんだなと、目を閉じたままベッドで耳を澄ましていた。



義母の家で5日間過ごし、いつも通り滞在中はほとんどなにもしなかった。ただご飯を食べ本を読み、昼寝をする。ご飯は義母かパートナーが作ってくれるから私は上げ膳据え膳状態で、テラスか居間のソファからほとんど動くこともない。息子の嫁がこんなので嫌じゃないのかなあ、と時々頭によぎる。もちろん自分の家ではないので、それなりに気を遣うこともあるのだけど、ドラマで見るような嫁姑問題とは無縁でありがたいなと思いながら、また昼寝に就く。


もう少し長く滞在するときはみんなでテニスをしたりペタンクをしたり、図書館にDVDを借りに行ったり、夏なら泳ぎに行ったりもするのだが、今回は短い滞在だったのでただただいつまでもダラダラとしていた。夜は映画を見るのが習慣だったけど、今回は映画を見ることもなく10時になるとすやすや眠った。普段からよく寝る方だが、山の家ではいつにもまして眠りがはかどる。



山でダラダラすることの良い点は、ダラダラの中に充足感を感じることだと思う。パリのアパートでももちろんダラダラするのだが、この二つは似て非なるダラダラだ。

パリでぼんやり何もしないでいると、せっかくの休日を無駄にしたように感じたり、時間を浪費してしまったような気がしてしまう。
もっと時間を有効に使えたんじゃないかとか、やらないといけないことがあったのに後回しにしてしまったとか、いつの間にか無駄なことを考えて、日が暮れる頃には小さな罪悪感を覚えることがある。
いつも何かをするべきで、生産的であることこそが正しいことという無言のプレッシャーがこの街にはあるのではないか。だから休んでいるようで休みきれず、疲れの澱が溜まっていく。

山の家では義母がことあるごとに「休め、休め」と言ってくれ、なにか手伝おうとすると「動かない、動かない」と制してくれる。お昼ご飯の前にも夜ご飯の前にもアペロタイムがあって、お昼からちょびっとウィスキーなんか飲むと午後はもうそれだけでうつらうつらとしてしまう。
ダラダラするためにここに存在していて、ダラダラすることこそ正しいようで、罪悪感を感じることがない。それに4匹の猫も一日中思い思いの場所でまるまっていて、ひたすらにのんびりしている。
ここには何か為さねばならないというプレッシャーが一切ないのだ。




これぐらい働いて、これぐらい休みをとっているのだから、まだまだいけるはず。そんなふうに疲れの量を頭で計算して見たり、あの子はこれくらいやっているのだから私もまだまだやれるはず、なんて人と比べたりしてしまっていたようだ。でも疲れは頭で測らず身体や心で感じ取るものだし、人と比べるなんて意味のないこと。

最近どうにも日常に取り込まれてしまっていたようで、時には住んでいる街から離れてこそ、日常を忘れ頭の芯から休息することができるのだと旅する効用を思い出した。


パリに帰り、今朝はトラックの音で目が覚めて、アラームのような鳥の声すら懐かしく感じた。思っているよりもずっと私たちは住んでいる環境から影響を受けているのだろう。

いままで住むなら断然都会が良いと思っていたけれど、もう少し小さい街や、自然に近い場所に住むのも面白いかも知れない。


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