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スマホのカメラが目となり、記憶は共有され存在が伝播する

現在パリではファッションウィークが開催中です。先日とあるブランドのショー会場の裏側でルックブックを撮影する仕事のアシスタントに呼んでもらいました。せっかくなので仕事の間にショーを覗かせてもらいました。


コロナの影響もあってか、招待客の少ない小規模なショー。その代わり誰もが最前席に座れるようになっています。音楽が大音響で流れ、モデルが登場し颯爽と歩き出します。

しばらく眺めていて気がつきました。自分の目で、目の前を歩いているモデルと服を見ている人のなんと少ないことか。ほとんどの人はケータイを取り出して写真を撮るかビデオを撮っています。チラッと目を上げることはあっても、目はほとんどずっとケータイの画面に釘付けです。


ショーには必ずオフィシャルのカメラマンがいて、全身はもちろんデザインのディティールをきちんと捉えた高画質の写真を撮っています。全ルックのオフィシャル写真は即日インターネットやアプリ、SNSアカウントなどで公開されます。
写真に限らず最近はオフィシャルビデオに力を入れているブランドも多いです。


だからわざわざ自分のケータイで写真やビデオを撮らなくとも、服の詳細がきちんと分かる高画質の画像や映像を後から手に入れることができるのです。でも実際に生で服を見て、ブランドの世界観を表現した空間で、服の素材と動きを感じられるのはショーならではの体験のはずです。
もしも私がバイヤーやスタイリストだったらショーの間は服を見ることに集中し、後日どの服をセレクトするか決めるときには、ショーの合間に撮ったケータイの写真ではなく、オフィシャルの写真を参照することでしょう。


ではなぜ目の前のショーを、見るよりも撮るのでしょうか。その理由は「洋服の写真を撮るため」ではないはずです。


ひとつは多分、無意識の条件反射。
スマートフォンを常に持ち歩き、なにか珍しいこと、面白いこと、楽しいこと、フォトジェニックなこと、そしてどうでもいいことでも、なんでも条件反射的にスマートフォンを取り出して写真やビデオに撮るのが習慣もしくは癖になっているから。
自分の目で見るよりもスマートフォンの画面を通してものを見ることの方が自然な行為になって来ているように感じます。眼で見た体験が頭の中に記憶として残るだけでは物足りない。写真やビデオというデータで保存されることで記憶が補完し強化されるのかも知れません。
確かに写真を見返して記憶を反芻することには得難い喜びがありますし、それに記憶に残すだけでなく写真に撮ることで他人と共有することもできる。美しい一瞬を永遠に残し伝えることができるのは、写真の魅力的な機能のひとつです。


ちょっと話が脱線しますが、家族ビザの申請の時、パートナーと一緒に写っている写真の提出を求められることがありました。偽装結婚でないと証明するための書類のひとつです。
私たちはセルフィを撮るタイプではないし、観光名所で記念写真を撮るタイプでもないということに気がついて、写真を用意するのにちょっと焦ってしまいました。
みんな当たり前にパートナーと自分が写った写真を用意できるだろうくらいに、写真を撮るという行為は日常に馴染んだ行為であり、また写真には「いつどこに誰が誰といた」という事実を証明する物的証拠として、写真に写っていることは事実であるという信頼感があるのだなと改めて感じる出来事でした。


閑話休題。

もうひとつは、「今・ここでの体験」よりも「私という存在がここにいたと発信すること」の方が大切だからスマートフォンで写真を撮る。これは本人にとってもショーを開催しているブランド側にとってもそうなのでしょう。

写真の意義はそのクオリティにあるのではなく、その場で写真を撮れる自分=素敵な場に呼ばれる価値ある自分であることをSNSで発信できること、にあるのだと思います。珍しい体験をできる自分、華やかな場所に招待される自分、クールな場所にいる自分、ファッション業界で働いている自分であることを証明するために必要な”自分で撮った写真”。自分がそこにいたことを証明するための写真だから、ブランドのオフィシャルカメラマンが撮ったショーのルック写真にはなんの価値もありません。

またブランドにとっても、インフルエンサーやセレブなど影響力のある招待客が自分で撮った写真やビデオをインスタグラムに投稿してくれることの方が、雑誌の撮影に自社の服が使われることよりも直接的かつ効果的な広告となる。
あのインフルエンサーがこのブランドを好きなんだ!と思わせることはブランドの好感度を高める効果的なイメージ戦略です。インスタグラムでフォローしているファッション業界の重鎮たちが皆このブランドのショーの写真をストーリーにアップしていたら、今このブランドがアツいんだな、と思わせることもできます。

だからショーの現場で誰も目の前で起こっているショーをその目で見ていなくても、みんながケータイの画面を見ている方がショーを開催する側も招待客もハッピーになる仕組み。果たして”現実”と”スマホの画面の奥につくられた現実”のどちらがよりリアルな現実なんだろう。少なくとももはやその二つの現実は、切り離して扱えるものではないでしょう。

ショーが行われている目の前でたくさんの人が一心にスマホの画面を見ている様子になんだかちょっとディストピア的な空気を感じました。でもそう感じたことをいま私はスマホの画面を一心に見つめて書いているし、私も毎日1枚くらいはスマホで写真を撮って綺麗なものを見たら誰かに見せたくなるし、ときどきどこかに投稿したりします。
それは決して悪いことではないし、美しい瞬間を残すことや共有する喜びは素晴らしいものだと思います。ただ、スマホで撮って投稿する一連の動作がオートマチックにはなりたくない。写真を撮るときには意識的でありたい。そして何よりいま目の前に起こっていることを自分の目で見ることだけは、忘れないようにしたいなと思ったのでした。



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