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「八百万の神」のシンギュラリティ論1

今日も、思いつくままに書いていきたいと思います。(本日も表紙は井坂健一郎教授の作品を拝借)

「ディストピア」

猿の惑星に、2001年宇宙の旅、マトリックス、アキラにナウシカ、あらゆる映画やアニメの背景にあるディストピア思想。

ディストピアという概念を知り、そしてそれは現実に訪れる、ないし既にそうだというようなことを知ったのは、10年ほど前。確か、ドワンゴの川上さんの本を読んでいて、最後にディストピアに住むことの情感がポジティブに綴られているのに驚いた。デジタル空間の先の未来には、ディストピアがある。その感覚は、田舎の自然の中で育った私には、信じがたい感覚だった。

一方で、私たちロストジェネレーションの「失われた」感覚からすれば、しごく納得の行くことでもあった。大学入学前から戦後最大の就職氷河期で、在学中にそれを更新し続けた。そんなニュースがテレビがなくても聞こえてくる。そして、気がついたらアルバイトじゃなくて、派遣登録している友達が増えてきた。

私たちの世代は、国に使われている感覚は、骨の髄まで刷り込まれていると行っても過言ではない。私も、高3で学校教育の無意味さを小論文で書いた。それで、なぜか、表彰された。先生もわかってるじゃんと。社会に出る気はなく、大学を卒業して晴れて、「フリーター」になった。文字通り、自由を手に入れた。けど、確かに、未来に希望はなく、当時は、ディストピアを見ていたのかもしれない。

「平等で秩序正しく、貧困や紛争もない理想的な社会に見えるが、実態は徹底的な管理・統制が敷かれ、自由も外見のみであったり、人としての尊厳や人間性がどこかで否定されている。」Wikipedia - ディストピア

これは、「神の喪失」である。神話を忘れた世界とも言える。

この感覚は、この社会のいたるところに潜んでいる。希望をもって生きようとする、その思いを餌に、蟻地獄のように、絶望の淵へと引き込んでいく。私も、絶望の彼方にいたのかもしれない。その後、私は、地獄の底を打ったかのように、そのマイナスのサイクルから浮上し、生きるということを自分なりに理解した。

結局、私が生きるということは、自分の問題ではなかった。

それを、社会全体、人類全体の問題として捉えないと、理解できないほどに、ひとりひとりの存在に意義があることがわかって、すべての疑問は消えた。

私がいるということと、世界があるということは、イコールだったのだ。

そのことに、ズレが生じると、世界が存在しなくなる。それがディストピアだ。ただ、私は確信を持って言いたい。

ディストピアは、アナログ世代の感覚で見たデジタル世界にいだく、一種の虚構の感覚に端を発している妄想だと。

じっくりと形成された、人類の負の思考の蓄積が生んできた、虚像だと。

完全に、デジタルの中で最初から育った、デジタル空間に身体性を見出したデジタルネイティブには、かえって、ディストピアは、よくわからない世界観だと思う。ないし、そう信じたい

今ググったら面白い記事が出てきた。

ここには、

「VR空間の「主観的情報量」が現実を上回るようになっていくはずだということですよね。要は、現実よりもVR空間の方が人間の脳にとって気持ちいい場所に最適化していく」

「VR空間の物理法則の方に、人間の脳が慣れちゃう」

情報量を削ぎ落とし、自分に必要な情報のみでできたVR空間では、「私がいるということと、世界があるということは、イコール」になる。

この感覚ほど、居心地が良く、安心して、パフォーマンスを発揮できる環境はない。

絶望の先に、原生林ジャングルの中で生活したときに、私という存在に記憶された人間としての情報と、原生林ジャングルが持つ情報の不調和に気づき、人間存在に気がついた経験があるので、よくわかる。

けれども、それでは、満足しない人が生まれるだろう。VR空間から抜け出して、再び、海を渡って、大自然を冒険したくなる、そんな瞬間がある。

そのとき、「自然の中で、私がいるということと、世界があるということを、イコール」にする「技」が必要になる。

1.シンギュラリティについて

以前、KaMiNG SINGULARITYというイベントに呼ばれているお話をしました

レイ・カーツワイルというマサチューセッツ工科大学卒の未来学者として、シンギュラリティを予想したという話の文脈のなかで、「人工知能が人類の知能を上回る」と提唱しました。

AIが人間を支配するとかAI対人間という構図とか人間としての存在価値がなくなるというようなニュアンスがそのシンギュラリティには含まれていて、たとえば意識をネットにダイブさせて、もう人間という存在がいなくなる、肉体を持つ必要がなくなるという話があります。

まさに、「ディストピア」のビジョンがよりハイテク化しつつ、明確化したような世界です。

けれども、「シンギュラリティ」とは、必ずしもそういったことを言っているわけではなく、ベースとなるロジックが鍵なのです。

大前提として、シンギュラリティとはテクノロジーの進化と、それにともなう人類の進化の話。

その基本的なロジックは、きわめて明快です。

また、テクノロジーの進化と人類の進化というのは、私としても、ずっと考えているテーマです。

トランステックという文脈の話ともつながります。

そして、人類の進化なので、当然、神概念というものが必ず議論の中に出てきます。

まず、このお話では、「半導体の集積率は18か月で2倍になる」と予測した「ムーアの法則」というのがあります。


実際に、この図にあるように倍になりました。

● Moore’s Law

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加速度的な進化というのは、式でいうと、Tの2乗(時間に対して2乗)ということで、このような図になります。

● 加速度運動の表

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一方で指数関数というのは、2のX乗になります。

● 指数関数の表

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このとき、ムーアの法則が意味しているのは、指数関数で伸びるほうです。最初の図が縦軸が10の乗数で表現されているのでわかりにくですが、指数関数的に伸びました。

それをカーツワイルは、「収穫加速の法則」といいますが、指数関数的(エクスポネンシャル)な進化の典型が、ムーアの法則ということになります。

それに合わせるようにテクノロジーも指数関数的に進化しています。

(そして、それに連動して人間の意識というものも、指数関数的に進化する。)

そのときに、特異点、つまり、「シンギュラリティ」に到達します。

つまり、指数関数的な増大が、あるとき特異点に達して、平衡状態になって、パラダイムがシフトしていくということです。

シュバルツシルト解がその典型で、星も特異点まで小さくなると、ブラックホールになる。それが、地球だと、半径9mm、直径18mmなのです。

そこを超えると、もう違う次元にシフトして後には戻りません。

それが特異点で、それが、テクノロジーの世界で起きていると。

それを宇宙の始まりから捉えて、カーツワイルは、エポック1~6の間でシンギュラリティ(特異点)があったとして

・宇宙のインフレーション(エポック1)
・生命の誕生(エポック2)
・脳の発達(エポック3)
・人間のテクノロジーの進化(エポック4)
・テクノロジーと知能の融合(エポック5)
・宇宙の覚醒(エポック6)として

今は、エポック4と5の間にあるとしていて、これがエクスポネンシャル(指数関数的)とパラダイムシフトという感覚によって、そのダイナミズムが理解されるのです。

エントロピーが増大していき複雑性が増し、情報量が増大していくと、自己組織化し、エントロピーが減少に向かって、新たな平衡状態にいく。これが、「パラダイムシフト」。

今は、超デジタルな世界において超複雑化し、自己組織化に向かっていっている中で、そのときに神が産まれるという仮説が、歴史に関するビッグデータをAIが解析した結果から、社会の複雑性の進化によって「神」が生まれるという結論に至った、先日紹介したこちらの論文から予測されるわけです。

●『社会の複雑性の進化によって「神」が生まれた? 』
https://s.neten.jp/0nzZp

その前提となる歴史のビッグデータがセッシャットなわけです。

そう、情報量が指数関数的に増大していくと、自己組織化(結晶化、散逸構造)し、エントロピーが減少に向かって、新たな平衡状態が生まれるそのときに、新たな神が生まれると。

確かに、「ホモデウス」、「データ神」など、話題になってきています。

神の誕生も、自己組織化と散逸構造と結晶化と同じ文脈で語れることが、浮かび上がってきます

神が誕生するという文脈で見るならば、神というものが人間の中で誕生し、
ギリシャやローマ、大和、アステカなど、いくつもの社会や文化が指数関数的に発展しました。

新たな神が産まれるというパラダイムシフトをフラクタルで繰り返していた結果、何万年前という人類の神の誕生から、何万年という単位で見たときに表れるよりダイナミックな指数関数的な進化によって、今、新たに、デジタル空間に神が産まれるということが見えるわけです。

それが、AIの中に神をみて、神がどのように立ち現れるのかと表現されるわけです。

2.その神は、ディストピアの神なのかそうではないのか?

そして、八百万の神の文化で、すべてが神でもあるという文化が日本では根底にあるわけですが、この日本的な、「八百万」に、データを分散して神として捉える考え方を、徐々に提案していきたいなと。

一般的な文脈のシンギュラリティの神は、データ神という一神の創造神を想定します。

なので、支配される。

「八百万」の神データの概念を、日本人は生得的に持っているのであれば、それは、ちょっと、使えるんじゃないかと。

それを「概念装置」として浮上させたい。


広辞苑に掲載されている単語の数を遥かに上回る数。

八百万というと、それは完全に「データ」。


例えば、この八百万という情報量を成り立たせるためには、人間の脳には無理で、コンピュータが必要。


それを、神という働きとして認識させるには処理が必要なので、データベースだけでなく処理する機能、つまり、人工知能のようなコンピューティングが必要になる。

それがあって、初めて八百万の神というのは認識され得るもの。

(そこまで、古代人が考えていただかどうかは、わからないけど  w)


一方で、「ホモデウス」のようなデータ神など、一般に言われているシンギュラリティの文脈で生まれる神という概念は、AI自体を神にして人と切り離す。そして、支配の概念がまとわりつく。

なので、冒頭の違和感が生まれるんじゃないかと言うわけです。

それが、日本人のシンギュラリティが脅威って、よくわかんないんだけど?という日米の温度差の理由なのかなと。


今後、この文脈が社会においてキーになってくると考えています。

続き https://note.com/nanasawa/n/nba35168dbc77




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