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「夢と知りせば」1-22逢はで果つべき「祇王寺」



12月に突入すると気温はさらに下がり、朝起きることがどんどん億劫になっていった。

京都に来て初めての冬。実家のある名古屋も相当寒いけれど、京都は「底冷えする」と言われるように、手足の先から寒さがじわじわと体に浸透し、ぬくもりを奪っていくようだ。

去年のこの時期は、毎日毎日気を張り詰めて朝から晩まで受験勉強をしていたせいか、あまり寒さは気にならなかったのだけれど、ひとり暮らしのさみしさも相まってか、暖房だけではどうにも寒さが紛れない。なるべくむだ遣いをしないよう心がけていたのだけれど、この間ついに通販でこたつを購入してしまった。これがどうにも心地よくて、一度足を入れてしまったら最後、蜘蛛の巣に囚われた蝶のように、なかなか抜け出すことができない。できるならこのままずっとこたつで丸まる猫になりたいものだわ、なんて願ったりもするけれど、残念ながら人間であるわたし、御坂琴子は、今日もカメラを持って寒空の下に繰り出していた。

「さ、さ、寒いです」

嵯峨嵐山駅に降り立った途端、全身を襲ってきた冷たい風に、ガタガタと小刻みに歯の奥が震えた。カメラにぶら下がっているもふもふのこん様を両手で包み、寒さを紛らわせようとしてみるけれど、期待したぬくもりは得られない。

「日中はあたたかいですが、夜になるとぐっと冷え込みます」

今朝のニュースで、お天気お姉さんが言っていた言葉を思い出した。これで「あたたかい」なら、夜は一体どうなるのだろう。しかも、現在の時刻は午後2時。1日で一番気温が上がるはずの時間じゃない。つい先ほどまで空からはちらほらとみぞれが降っていた。その証拠に、地面がしっとりと濡れている。

「この間まで秋だ、紅葉だ、と言っていたのに、もうすっかり冬ですね……へくしゅっ」

「別に、むりについてこなくてもよかったのに……見たいのは花灯路なんだろう」

わたしに向かってポケットティッシュを差し出す背の高いこの人は、毎度のことながら我が大学の間崎教授だ。この間とはまた違う、上品な黒いロングコートを羽織り、マフラーをふわりと首に巻いている。

寒いのが苦手なのは教授も同じであるはずなのに、どうしてこうもすました顔でいられるのだろう。わたしは北極地点へ向かう探検家みたいに着込んでいるというのに。役に立たない太陽が、濡れた地面にふたり分の影を落としている。おかしい。二つに並んだ影を見て、わたしはむっと顔をしかめた。同じ人間のはずなのに、なぜだろう、これじゃあ飼育員とペンギンみたい。

「もちろん、当初の目的は花灯路ですけど……教授だけ抜け駆けするのはずるいです。嵐山に来るのも初めてですし……それとも、わたしの写真はもういらないっておっしゃるんですか。そんなの、ひどいです!」

「寒いからって、不機嫌になるのはやめなさい」

「そんなに子供じゃありません」

「未成年は、子供です」

毛を逆立てる猫のようなわたしを軽くいなして、教授は近くに停まっていたタクシーをのぞき込んだ。運転手が後部座席のドアを開けて、わたしたちを迎え入れる。

「祇王寺まで」

教授が行き先を告げると同時に、タクシーがぐんっと発進した。ごおお、と乱暴な音を立てる暖房のおかげで、裸の耳からぬくもりがじんわりと体に浸透していく。

寒暖差によって曇った窓に、白っぽい景色が、幻のように心もとなく霞んで見えた。雲の合間から降り注ぐ頼りない太陽光が、本来の輝きを奪っているようにも感じて、こんなあいにくの天気じゃあ、いい写真が撮れるのかしら、なんて、柄にもなく不安になった。曇りの写真もきらいじゃないけれど、やっぱり、青もみじにしろこの間の紅葉にしろ、ぱっと明るい青空の方が、鮮やかで写真映えするんですもの。

そんなことを考えているうちに、あっという間に目的地に着いた。外に出るとやっぱりまた、あの刺すような冷たさがぶり返して、冬が始まったばかりだというのに、遠い春が恋しくなった。

寒さに耐えてあたりを見渡す。祇王寺の入り口は、観光地である嵐山にあるとは思えないくらい静かで、冬がそのまま景色に染み込んでいるようだ。少し物悲しい木々が昔話のように生い茂り、人の気配すら感じさせない。

――しっかり撮ってくださいよ、琴子さん。

わたしを奮い立たせるように、カメラにぶら下がったこん様がわたしを見上げてくる。分かっています、そんなこと。心の中でうなずいて、わたしを気にかけるように振り向く、教授のあとをついていく。

祇王寺に足を踏み入れたその瞬間、緑の海が視界を埋め尽くした。立ち並ぶ木々は確かに冬の色をまとっているのに、地面には緑色が絨毯のように広がっている。草むらではない。それは――

「苔……?」

そうだよ、と教授がうなずく。空気がひんやりしているから、かしら。その声は少しかすれて聞こえた。

苔って、こんなだったっけ。わたしは写真を撮ることも忘れて、目の前に広がる光景を眺めた。葉を失ったさみしい木々の元に、先ほど降ったみぞれを含んで、しっとりと艶めいた苔が溢れている。膝を曲げて間近に見てみると、芥子粒ほどの水滴が、涙のように散らばっていた。秋の形見のような枯れた葉が、仲間はずれにされたようにぽつんと横たわっている。

何かが喉の奥を締めつけて、言葉がうまく出てこなかった。ただ、二酸化炭素だけが白く白く、口から吐き出されるばかりだった。

今までも、きっとどこかで苔を目にしてきたはずなのに、花やもみじ、建物ばかりに目がいって、こうして足元に注意を向けてこなかった。だから知らなかった。気づかなかった。こんなにも苔が美しくて――さみしい、ことを。

隣に立つ人を見上げた。教授は、大切な宝物を取り上げられてしまった子供のような、不安定な表情を浮かべて、この哀愁漂う場所を眺めていた。ポケットに入れられた両手が、自分を守るように固く握られていることが、見えていないのに分かった。

祇王寺に行こうと思う、と教授から聞かされたのは、つい2日前のことだ。元々嵐山の花灯路を見にいく約束をしていたから、てっきり夜に出かけると思っていたのに、その前に寄っておきたい、と、彼は言ったのだ。

それなら連れていってくださいよ、とむりやりついてきてしまったのだけれど、教授の表情を見て、もしかしてひとりで来たかったのかな、わたし、無神経なことをしてしまったのかも、と、不安が雨雲のように広がった。

苔の海の向こうには、茅葺き屋根の小さな草庵がぽつんと建っていた。吸い込まれるように草庵の中に入ると、丸くて大きな窓から漏れ入る光が、薄暗い空間をぼんやりと照らしていた。「虹の窓」とも言われる吉野窓は、障子を閉めた時に影が虹の色に見えるらしい、と、わたしの心を読み取った教授が教えてくれた。もっとも、今は障子は開いているし、光の入り具合にもよるんだけどね、とつけ足して。

わたしはふと、仏壇に並んである木像に目をやった。説明書きに、本尊大日如来、清盛公、祇王、祇女、母刀自、仏御前、と記されている。

『祇王寺は平家物語にも登場し、平清盛の寵愛を受けた白拍子の祇王という女性が、清盛の心変わりにより都を追われるように去り、母と妹とともに出家し入寺した悲恋の寺として知られております』

「悲恋……?」

「『入道相国、一天四海を、掌の内に握りたまひし間、世の誹りをも憚らず、人の嘲をも顧みず、不思議の事をのみしたまへり』――平家物語『祇王』に書かれている話だよ」

心の中でつぶやいたつもりが、声に出していたらしい。教授はわたしの隣にやってくると、思い出を語るように、祇王について話し始めた。

――かつて、白拍子の祇王という女性がいた。祇王は平清盛の寵愛を受け、妹の祇女も世にもてはやされ、母の刀自も立派な家屋に住まわせてもらうようになり、一家は富み栄えた。

しかしそれから3年が経つ頃、仏御前という白拍子に清盛の心が移ると、祇王は都を追われるように去り、母と妹とともに出家したのだった。祇王が清盛の元から去る際、せめてもの形見にと、泣く泣く襖に詠んだ歌がある。

『萌え出づるも枯るるも同じ野辺の草いづれか秋に逢はで果つべき』

春に草木が芽を吹くように、仏御前が清盛に愛され栄えようとするのも、わたしが捨てられるのも、所詮は同じ野辺の草――白拍子――なのだ。どれも秋になって果てるように、誰が清盛に飽きられないで終わることがあろうか――

「君も文学部なら、一度読んでみるといい。講義で取り扱うことがあるかもしれないから」

わたしはうなずくこともできないまま、改めて祇王の木像を見つめた。一度は愛情を注いでくれたはずの清盛によって都を追われ、尼になった祇王。その苦しみや悲しみが、表情に滲み出ているようだ。

「……愛情って、そんなに簡単に冷めてしまうものなんでしょうか」

言葉にしたら、空気の抜けた風船のように、心がどんどんしぼんでいくような気がした。

「わたしにはよく分かりません。仏御前が現れたからって、寵愛していた祇王を追い出すなんて……そんなの、勝手じゃないですか」

怒りと、切なさと、やるせなさが入り混じって、なんだか責めているような口調になった。教授は何も言わずに、わたしの感情が声となり、空気に溶けて消えていくのを待っていた。

それからわたしたちは草庵を出て、絨毯のような苔に溢れた祇王寺を、ゆっくりと歩いて回った。分厚い雲が、今にも泣き出しそうに空を覆っている。

「……その時の感情に」

わたしの一歩先を行く教授が、雨粒のように小さな声でつぶやいた。

「どれだけ重きを置くかは、残念ながら人によって違うんだ。花火のように、一瞬で燃え上がり消えてしまう愛もあれば、空気のように、目には見えなくても決して消えない愛もある」

「……教授は――」

何気なく、尋ねようとしたその瞬間。酸素を奪われるような、息苦しい不安が襲ってきた。聞いてしまったら、細い糸で繋がっているような頼りないこの関係が、ぷつんと切れてしまうような。そんな、恐れることがばからしいくらいの予感が、喉を潰した。

「何?」

「いえ、あの……教授がそんなことを言うなんて、少し意外だったので」

慌てて早口で答えると、振り返ったその顔に、子供のような笑みが弾けた。

「まぁ、確かに愛だの恋だのは、琴子さんにはまだ早い話だったな」

「ま、また子供扱いして!」

ぷっくりと頬を膨らませると、教授はますますおかしそうに笑った。わたしはわざと怒ったふりをしながら、カメラのシャッターを切っていった。

ここに来る前は青空に焦がれたりもしていたけれど、そんなの杞憂に過ぎなかった。むしろ祇王寺は、この雪模様こそが似合う。

「教授が祇王寺に来たいっておっしゃった理由、分かった気がします。新緑の頃や紅葉の時期も見てみたいですけど、冬の慎ましやかで物憂げな感じも、味があってすきです」

「以前は秋に来たんだが、いつか冬の祇王寺も見てみたいと思っていたんだよ」

季節によって、景色は別人のように姿を変える。平家物語を読んでから、もう一度、ここに来ようと思った。きっと次に来る時は、また違った顔を見せてくれるだろう。

カメラにおさめた祇王寺を、はしゃぐように教授に見せた。ひょいっと背中を曲げてのぞき込む、その仕草に、いつも通りの優しさを見つけた。いいですねぇ、なんて、ちょっとわざとらしく褒めるので、そうでしょう、と、偉そうに胸を張って笑ってみせた。

これで、いいのだ。何かを知ることで平穏が崩れてしまうなら、何にも知らない子供のままでいればいい。だってわたしと教授は、友人ではないのだから。

びゅう、と、一層強い木枯らしが吹いた。肩まで伸びた黒髪が、わたしの心を表すように、散り散りに乱れていった。

*フォントの関係で「祇王寺」は新字体を使用しています。

参考文献:「日本古典文学全集29 平家物語 一」(小学館 1973年初版発行 1995年第25版発行)


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