【ライブレポ】amazarashi 『ロストボーイズ』ツアー グランキューブ大阪公演
※この文章はライブのネタバレを含みます。
今後の福岡公演、東京公演に参加される方はご注意ください。
また、個人の記憶をもとに私情をはさみながら書くので記憶違いや解釈のずれ、読みづらい部分もあるかもしれません。
熱量はオーバーヒートしています。
2022年10月31日(月)
世間ではハロウィンで、仮装する人々もいたりとどこか賑やかな雰囲気が漂う街中、それとは対極にあるような何かを求めて私はグランキューブ大阪(大阪国際会議場)へ向かっていた。
ずっとずっと待ち焦がれた、amazarashiのライブ『ロストボーイズ』ツアーの大阪公演へ参加するために。
今回のライブはもともと6月9日(ちなみにこの日はamazarashiのメジャーデビュー記念日でもあったりする)に行われるはずだったライブの振替公演となる。
先発の名古屋公演につづき、チケットは完売らしい。めでたい。
到着した頃にはすっかり日が暮れていて、会えるかな〜 と少し期待していたグランキューブの人懐っこい雀(写真は3年前のときの)には会えず。
特にすることもないし時間も時間なので会場入りすることに。
メインホールに入り電子チケットに表示された自分の席へ座ると、スマホの電源を落として開演に備えた。
ステージ上のスクリーン(紗幕)では何やら文字が流れている。
すべてを覚えているわけではない(あいまいな部分は空けてある)し、順番通りでもないけれど、このような言葉たちがずっとスクリーンに流れていた。
まるで誰かの「過去」をなぞるように、自身を呪ってきた言葉や、味わった悔しさ、惨めさ……
そんな言葉の数々が上から下へ、垂れ下がるように現れては、上手側へと流れて消えていく。
しばらく見ていると見覚えのある言葉が再び流れてきて、一周したのだと悟る。
その後も開演まで、ループするその言葉たちをただただ眺めつづけていた。
感情と環状。
まるで、出口もなくぐるぐるとまわる思考を見ているようで。
自分自身、いくつもの夜、一人でぐるぐると出口のない悩みを巡らせていたことを思い出し、重なる。
開演前からすでに涙が込み上げそうになるのを必死でこらえていた。
やがて開演の時刻になると、上記の言葉たち(点)が線となり、スクリーンいっぱいの楕円(環状)になったところで本編へ。
amazarashiのギター&ボーカルである秋田ひろむさんの声がホールに響く。鼓膜を、心臓を震わせる。
先程スクリーンに流れていた言葉たちを秋田さんが朗読する形での幕開けだ。
後半へいくにつれ、秋田さんの語気はどんどん強くなり感情が揺さぶられる。
「未だ(世間)には馴染めず」
(※11/24 訂正→「結局この世界とも馴染めない」が正しいです。こちら参照)
秋田さんがそう叫んだあと、開演前のスクリーンには流れていなかった
「その全てが私である」
という言葉でもって1曲目の『感情道路七号線』へ雪崩れ込み、同時に私の涙腺は決壊した。
ライブのこんな序盤から泣いたのは初めてで。早速マスクの中は湿ってしまって。
久しぶりに秋田さんのあの力強い歌声を浴びただけでもそうなるのはほぼ必然的だったけれど、それ以上に。
「その全てが私である」という言葉が、
どんなに消してしまいたいような、苦しい過去さえも、それら全てを含めて「自分である」とする言葉が。
ここ数ヶ月の自身の悩みとリンクして、まるごと肯定されるようで。
もうそれだけで、この日のライブに来られたことを心から感謝した。
「青森から来ました、amazarashiです」
といういつもの挨拶もこの曲のときだったかな。
紗幕越しに浮かび上がるシルエット。
秋田さんをセンターに下手側からピアノ・コーラスの豊川真奈美さん、ギターの井出上 誠さん、ベースの中村武文さん(多分)、ドラムの橋谷田真さん(豊川さん以外は一応、サポートメンバーです)がほぼ横並びでステージに立っている。
紗幕によって表情は見えないけれど、各々の動きからライブへの意気込みが感じられた。
今年4月にリリースされた6thフルアルバム『七号線ロストボーイズ』を引っ提げての今回のツアー。
アルバムには「日々の生活、人間関係、人生の意味など様々な問題を抱える中、自分が何者なのかを探し、未来へと進むためのアイデンティティーを見つけて欲しい」とのメッセージが込められている(公式HP参照)
そのアルバムの先頭を走るのが、そして今ツアーのオープニングを飾るのがこの曲なのだ。
自分の中で、まだ名前のない感情が声を上げるのを感じた。
つづく『火種』では、裏声を駆使した歌唱で燻っている感情を揺さぶり、焚き付けていく。
歌詞のひとつひとつに、うんうんと頷きながら、涙を流しっぱなしにしていた。
「僕はなぜ僕になったのか」
こんなはずじゃなかった現在に立って、そのきっかけ、引き金、火種を紐解くこの曲に、秋田さんの言葉に、心が少しずつ解放されていくのを感じた。
そう絶唱した『境界線』では言葉と歌声が心臓を真っ正面から貫いて、もはや涙を拭う隙さえ見つからない。
人々の心は日々、さまざまな「境界線」の狭間で揺れていることを知る。
たとえば、生きたいと死にたいの境界線で揺れる心。正解、不正解の境界線。大人と子どもの境界線。
大切な人が理不尽に傷つけられていると知ったとき、自分にできることは何なのか、とか。
どれだけ思っていたって、見えなければ伝わらなければ、存在しないのと同じだ。
“そうならざるを得なかった”
“そういうふうにしか生きられなかった”
そんな、これまでの道のりを肯定したうえで
“さあ、あなたはどうするんだ?どうしたいんだ?”と問いかけるように言葉が紡がれる。
今回のライブは、曲の内容的にも映像的にも、電車(線路)や道路のモチーフが多く用いられていたように思う。
過去から現在までの「道程」をなぞり、そして未来へ向かおうとするアルバムのコンセプトに則ったものなのだろう。
行く先も分からない、自分が何者なのかも不明瞭。
それでも未来へ進もうと足掻く人々へ、歌を届けようとする意思が感じられた。
そして、それを裏付けるような秋田さんの前口上
「道に迷うすべての子どもたちと、かつて子どもだった人たちへ(向けて)歌いに来ました」
から『ロストボーイズ』へ。
MVとは違う、歌詞に添った映像(たとえば“オーバードーズ”で錠剤が映ったり)が流れる。
ライブで聴いたらきっと泣くと思っていたけれど、初っ端から泣きすぎた私はこの頃には少し冷静になっていた(と言ってもずっと泣きそうではあるのだけど)
「泣かないで」と歌う秋田さんとは裏腹に、二つ隣の席のサラリーマン風の人が、涙を拭いつづける姿が視界の端に見えたのを覚えている。
泣いちゃいますよねこの曲は……。
居場所を求めて努力すれど、すべてが裏目に出てしまう。
夜に隠れて泣いたって太陽に暴かれて、誰かのせいにしたくなって、過去を嘆くと今を否定することにもなるからそんな醜い自分は必死で隠して。
……そんな夜が、未だに幾つもある。
大人になっても迷子のまま。
そんな“迷子たち”をやさしく導くように、秋田さんの歌声が伸びていた。
『ロストボーイズ』を終えたタイミングでだったか、記憶があいまいだけれど。
素顔を公表していないamazarashiのライブではお馴染みとなるステージを覆う「紗幕」が、そろ〜っと静かに上がっていったのでドキッとした。
(実際にはもう一枚、極々薄い紗幕があったのだけれど)
秋田さんはつばの広いハットを常にかぶっているし、ステージの照明も暗いためそれでも素顔が見えることはないのだけれど、今までになくくっきりとハッキリと、メンバーの姿が見えてびっくりしてしまった。
そんな状態で演奏された『間抜けなニムロド』
映像はステージ奥と手前の極薄紗幕の両方に投影されているようで、その遠近法でまるで3D映像のような演出となっていた。
“正しく痛がる”とはどういうことだろうか。
そんなことを考えながら、歌詞のひとつひとつに頷くように聴き入る。
間抜けな、でもかわいい反逆者。
譲れない信念にしがみつく愚かさ
わかっていて離れられない愚かさ
でもそんな愚かさだって、自分だけの愛しいアイデンティティになり得るかもしれない。
……ここまではアルバム『七号線ロストボーイズ』の曲順通り。
そろそろアルバム以外の曲がくるだろうかと思っていると、始まったのは4thフルアルバム『地方都市のメメント・モリ』より『空洞空洞』
初めてこの曲を聴いたとき、「詩」が「死」に聴こえたのを覚えている。この日もやっぱり、「詩」の発音は「死」に聴こえた。意図的なのかもしれない。
豊川さんの芯のあるコーラスも、文字(歌詞)がドライブするように奥から手前へ迫ってくる紗幕の演出もかっこいい。
『空洞空洞』では元に戻って(下がって)いた?紗幕が演奏が終わると同時に再び上がり、極薄紗幕のみに。
暗く照明の落とされたステージの奥、八つのスタンド(松明)の先にボゥっと炎が灯った。
その明かりの中、静かに響いたのは『僕が死のうと思ったのは』のイントロ。
暗闇に紅いカーテンと炎の明かりだけという演出が、歌と演奏を引き立てる。
この日この場所へ集った人たちにとって、「あなた」はamazarashiや秋田さんのことでもあったりするのだろうな。
アウトロとしてのギターの残響が消えるのとほぼ同時に、八つの炎もしぼんでいく。あたたかい涙が頬を伝うような気がした。そして次の瞬間、
サビ始まりの曲、秋田さんの高らかな歌声でもってすすり泣きの静寂を切り裂き『あんたへ』へ。
その瞬間、2つ隣の席の人が泣き崩れたように見えた。『ロストボーイズ』で涙を拭っていたサラリーマン風の人。
紗幕に映し出された『あんたへ』のMVに登場するサラリーマン風の男性と重なるようで。顔も名前も知らないその人の人生に少しだけ、勝手に思いを馳せたりした。
今辛いのは、戦っているからで。逃げないからで。
自分らしい失敗の積み重ねが、自分らしい人生になって。
転んだって、自分らしく立ち上がればよくて。
自己否定の渦に飲み込まれそうな夜をまるごと肯定する言葉が並ぶ。
涙は出ずとも心はとっくに泣いていた。
つづいて、まるで誰かのリアルな手記を覗き見るかのような曲『夏を待っていました』のイントロとMVの映像が流れる。
夏を待っていたはずが、いつの間にか一人置いてけぼりになってしまって、周りはどんどん大人になっていって。
それでもこれもあの日のつづきなら、涙を拭いて自分は自分で歩き続けるしかないのだろう。物語はつづくから。
あまりに切ない歌詞の内容と、憂い気な秋田さんの歌声に耳を傾けた。
そして再びアルバム『七号線ロストボーイズ』から、『戸山団地のレインボー』
団地や線路など、線のみで描かれた映像が投影される。
歌詞に合わせるように、虹色のピンスポットが秋田さんを照らした。
人生、物語のようにきれいに上手くはいかないことが多いけれど、奇跡みたいな出来事もなかなか起こらないけれど、それでもまだ、信じてみてもいいだろうか。
ここでステージは暗闇に包まれ、ギュインギュインとギターのハウリング音が不穏に響き渡る。
紗幕には、無数の漢数字がバラバラと降ってきて積み重なる映像が。
静かな歌い出しで始まったのは、『数え歌』
まさかこの曲が聴けるとは思わなかった。
紗幕には歌詞が投影されるのだけれど、ひとつひとつの文字のデザインが凝っていて。
たとえば、「瞳」で目の部分が目の形になったり、「木漏れ日」で木漏れ日のような線が射したり、「泣いた」でさんずいの下の部分が零れ落ちたり。
悲しかったこと。嬉しかったこと。
ひとつひとつ、過去を弔うように。
ひとつひとつ、過去を抱きしめるように。
祈るような秋田さんの歌声が、豊川さんの美しいコーラスが、降り注いで身体じゅうに沁み渡った。
「自分が何者かは、自分の過去が語ってくれる」
そのような前口上はここでだったか、秋田さんの故郷でもある青森県を舞台に歌詞と映像が展開される『アオモリオルタナティブ』へとバトンが渡る。
「君はもうきっと大丈夫」
“迷子”な人々を肯定するように、歌が寄り添う。
誰にも話せないことは秘めたまま、
後悔も抱えたまま、迷子のまま。
憂いの出生を辿れば、目を覆いたくなるような過去が散らばっている。
変えたい。変わりたい。抜け出したい。
今さら大きな変化は望めないかもしれない。それでも、
たとえその勇気が芽吹くのが何年か先でも、一歩踏み出してみようかと思える。そんな、決意に似た何かが胸に灯る。
つづいて、メジャーデビューミニアルバム『爆弾の作り方』より、『爆弾の作り方』
12年前にリリースされたこの曲が、今回のツアーのコンセプトにもピタリとはまっていることにamazarashiのブレなさを感じる。
どうして、“自分だけの何か”なんてものを探し始めてしまったのだろう。
そんなことを気にしなくても、ただ生きていられた頃だってあったのに。どうして、今さら。
でもきっと、「今さら」なんじゃなくて、今だから。いろいろを経たいまの自分だから、そう気づきたいんだろう。
気づきたくて、掴みたくて、もがいている。
私は、どうしたい?どうありたい?
「僕は歌で」
そう高らかに示し叫んでくれる存在がいることで、自分も後に続こうと、そう思える人間がここにいる。
再びサビ始まりの秋田さんの絶唱が天井を突き抜けた『空に歌えば』
豊川さんのコーラスも力強く響く。
この曲もまた、過去の後悔を肯定しながら“それでも”と未来へ足掻く様が描かれていて胸の奥底から熱いものがこみ上げる。
秋田さんはじめメンバーの力強いパフォーマンスに、思わずこちらの身体も大きく(と言っても他のアーティストのライブに比べれば控えめに)揺れる。
秋田さんが最後の最後まで全力で歌いきりギターを激しく掻き鳴らすと、会場は歓声にも似た大きな拍手で包まれた。
一転して、静まりかえる場内。
2009年12月に青森限定500枚でリリースされたamazarashiのミニアルバム『0.』
その後、全国版としてリリースされた『0.6』
CDジャケットに描かれた少し不気味な(画像参照)てるてる坊主が中央に、「0.6」の文字が紗幕の右下に浮かび上がる。
つづいて紗幕の余白に投影されたのは、amazarashiがこれまでにリリースしてきた曲の歌詞たち。
amazarashiの歴史をなぞる演出に豊川さんのピアノの音色が寄り添い、やがてそれは聴き覚えのあるイントロへと姿を変えていく。
『1.0』
この曲で私は泣き崩れた。
嗚咽で身体の震えがとまらず、ついには自分で自分を支えられなくなって、両手を胸の前でギュッと握ったまま顔を伏せてうずくまって泣いた。
ライブでこんな泣き方をしたのは初めてで、自分でもわけがわからない。
完全着席のライブだったけれど、もしスタンディングだったらその場に立っていられたかどうかも危うい程だった。
何がそんなに自分を決壊させたのか分からない。
確かにこの曲はアルバム『七号線ロストボーイズ』の中で私がいちばん好きな曲だと言ってもいい。
それにしたって、イントロでこの曲だと悟って、秋田さんが歌い出した瞬間、もう自分ではどうすることもできない状態になってしまったのには驚いた。
(お隣や後ろの方々ごめんなさい)
2番のAメロを過ぎた頃、やっと顔を上げてステージに目を向けることができたけれど嗚咽は止まらず。
祈るような歌声と慈雨のようなピアノの音色に身を委ね、やわらかい雨に打たれるかのごとく泣き続けた。
自分をそこまで追い詰めたのは何だっただろうか。
過去を紐解くほどに、成仏できない苦しみに対峙して。それでも、そんな苦しみをすべて帳消しにしてしまえるような「大切なもの」もあって。それらをお守りにして生きている。
人とかかわるのが得意ではない。
話すのが得意ではない。
大好きな友人と話していても、嬉しいときでも、楽しいときでも、ふっと身体の力が抜けて意識が飛びそうになる。
緊張するとうまく呼吸ができなくなって、酸欠で身体が痺れる。
人として大切なはずの感情が欠落している。
いっそ「無」になって、誰ともかかわらずに生きていきたいと思ってしまうこともある。
それでも、人が嫌いなわけじゃない。
むしろ、こんな自分だからこそ、もっと人と会って、話して、かかわるべきだと思っている。
もっと、他人に心を開きたい。
ずっとずっと、そう思っている。
Cメロのこの歌詞は、amazarashiの『ドブネズミ』の歌詞にも繋がるような気がした。
何があってもそれだけは、絶対に手放しちゃいけない。そのことを肝に銘じる。
「1」というのは、
自分にとってのかけがえのない存在や、夢中になれること、安心できる居場所、いつか見たい景色などの「生きていく(生きていける)理由」のことだと私は解釈している。
秋田さんは雑誌のインタビューでこの曲について「ファンへの手紙みたいな感覚で書き始めた曲」だと語っていた。
(※rockin'on JAPAN 2022年5月号参照)
私はamazarashiの歴史や秋田さんの過去についてそれほど詳しいわけではないけれど、かつては一貫して「誰かではなく自分のために歌っている」というスタンスのはずだった(違っていたらごめんなさい)
誰かのためにとか、歌で救おうとか、そういう考えは傲慢だからと避けてきたであろう秋田さんが、ファンへ向けて真摯に祈っている。
自分にできるのは、ただただ祈るだけとでも言うように。
それでも、内側から、ほんの少し外側へ向けられた変化がじんわりと嬉しい。
2018年の武道館公演を経て、“弱さを武器にすることをやめた”(これも先述の音楽雑誌で語られていた言葉です)秋田さんは、今は対岸で手を振る側に立っているのだと感じる。
そして私自身は、手を振る側でもあり、振られる側でもあるという微妙な位置にいる自覚がある。
自分にとっての「1」を確信しながら、それでもなお苦しみに沈むこともあって。
そのくせ誰かを想って「あなたにとっての1が見つかりますように」と祈っていたりする。
けど、そんな揺らぎも含めて自分なのだと知る。
秋田さん、ファンを想い祈ってくださってありがとうございます。
どうかこれからも秋田さんが、自分のために歌い続けられますように。
ここで、再びステージの明度が上がる。
“この先あと何回再会できるだろう”
“夜の向こうに答えはあるのか”
そのような前口上ののち、『スターライト』へ。
amazarashiの中ではアップテンポで明るい曲調の『スターライト』、モチーフとなっているのは秋田さんも敬愛する宮沢賢治さんの『銀河鉄道の夜』で。
「ほんとうのさいわいは一体何だろう。」
という著書の一説にも通ずるメッセージが散りばめられている。
終盤、唸る轟音の中で秋田さんが声を振り絞り叫んだ。
「いつか、いつか全てが上手くいくなら……!」
「いつか全てが上手くいくなら……!」
それに合わせて演奏もますます熱量を上げる。
声に出さずとも、微動だにせずとも、オーディエンスの湧き立つエネルギーまで感じられるようで。
何度絶望の淵に立っても、“それでも”一筋の光へ向かって突き進もうとするamazarashiの一貫した姿が、くっきりと浮かび上がっていた。
“嬉しかったことも、苦しかったことも、年々スピードを上げて通り過ぎてゆく”
“寂しさも人と人の間にあるもので”
電車の発車メロディーを想起させるようなイントロが天井高く響き渡り、この旅路(ライブ)ももうそろそろ終点なのだと悟る。
『空白の車窓から』
アルバムでも最後に配置されたこの曲が、やはりライブをラストへ導いた。
終わりとはいえ、これは始まりの歌でもあると思う。
物事には終わりがある。
人との関係や、命にも。
人は変わっていく。車窓の景色は流れていく。
物理的な距離が離れたり、心の距離が離れたり、もう会えなくなったりして。
それはとても寂しいことで。
胸を引き裂かれるほどに寂しいことで。
でも、変わっていくことは後ろめたいことじゃない。
あなたも、私も、変わっていく。
いつまで側で見ていられるだろう。
いつか離れ離れになるかもしれないけれど、出会えたことに、一度でも巡り会えたことに感謝しながら。
どうかお元気で。
……そんな、心情風景が浮かび上がる。
この日の秋田さんは常にフルパワーだったのだけれど、この曲ではいっそう勇ましく、躍動して見えた。
己を鼓舞するように、オーディエンスを鼓舞するように、寂しさをまとった歌詞も明るく歌い上げていく。
Cメロからラストへ向けての、気持ちがはやるようなアレンジがたまらない。ライブだと、それがよりいっそう映える。
何かを掴みかけたような、向かうべき場所を見つけたような、未来へと加速する高揚感で満ちあふれていく。泣きたい気持ちすら追い越していく。
「光へ向かって進め」
最後は、メンバーの姿が見えなくなるほどにまばゆい光でステージが包まれ、秋田さんの「ありがとーう!」という声がこだました。
それはいつもの力強い「ありがとうございました!!」でも、心を込めて呟くような「ありがとうございます」でもなく、本当に清々しさあふれる「ありがとーう!」で。
こちらの気持ちまで晴れるようだった。
生きていると、「知りたくなかった」と思うような出来事に遭遇することもある。
知ってしまったら、知らなかった頃の自分にはもう戻れない。それでも、
そんな自分だからこそ、描ける景色もある。
そのことを、君はもう知っているはずだよと、この曲は教えてくれている気がする。
失敗も挫折も後悔も喪失も痛みも。
寂しさも消せない傷跡も。
すべて引っくるめて、自分の成り立ちを肯定しながら未来へと進んでいく。
「ただそれだけ」
寄り道したり、立ち止まったり、迷子になったり。
それでも、そんな今だって未来の自分をつくる一員なのだと思うと少しだけ、期待できる気がする。
それくらいでちょうどいい気もする。
amazarashiのライブにアンコールはない。
出発から終点まで、完全燃焼で走り切った。
それはきっと、オーディエンスの充足感ともシンクロしている。
「ありがとう」と伝えるように、力いっぱいの拍手が鳴り響いていた。
終盤3曲辺りのどこかで語られた、その日初めての秋田さんのMCについても触れておこうと思う。
大阪ありがとうございます。
お休みして、ご迷惑おかけしてすみません。
(今回のライブの延期の理由が、秋田さんの体調によるものだったため)
それでもこんなにたくさん来てくれて、ありがとうございます。
お休みして、その間にいろんなことを考えて。
躓かないよりも、立ち上がる方法を知っている方が役に立つんだなって。
amazarashiとしての10年以上、大変なこともあったけれど、その大変だったことが役に立ったなって。
……と、あくまでニュアンスだけれど、そんなことをお話ししていた。まさに、過去の肯定だ。
(余談だけれど、立ち上がる方法云々のとき、BUMP OF CHICKENの『なないろ』の歌詞、“躓いて転んだ時は 教えるよ 起き方を知っている事”というフレーズがよぎった。
レポを書きながら、amazarashiの『あんたへ』にも通ずるなと思ったり)
一言ひとこと、ゆっくりと言葉を紡ぐ秋田さん。
そのひとつひとつに、観客はあたたかい拍手で応える。
amazarashiとリスナーの、この関係性がとても好きだし心地良い。
新曲を作ってるって話もあったらしいのだけど、私はその辺完全に記憶が飛んでいます(そこ大事なのに)
作ってるらしいですよ、新曲。楽しみですね。
それと今回、いつもの「生きてまた会いましょう」ってそういえば言わなかったなと思っていたのだけれど、その辺りも記憶があいまいで。
いろいろ、大事な部分を聴き逃してしまっているかもしれない。
それでも、とにかく、ライブは本当に本当に素晴らしかった。
私は今回のライブに、いつになく強い意思で“乗り込んだ”ように思う。
「なぜ自分は自分になったのか」
「自分は何者なのか」
「どこから来て、どこへ向かうのか」
自身がここ数ヶ月抱え続けた漠然とした悩みと、アルバムのコンセプトがとてもリンクしていたから。
amazarashiのこれまでを辿ると同時に、自身のこれまでを紐解くために同じ電車に乗るような、そんな気持ちでライブに臨んだ。
ライブが終わる頃、どのような心境になっているだろう……。怖いような、ワクワクするような気持ちで。
結果的に、今回のライブにこのタイミングで行けて本当によかったと心の底から思った。
正直まだ全然抜け出せてなんかいない。
どんなにライブで満たされて帰ってきても、やっぱり毎日はつらくて。大丈夫に見えても大丈夫じゃなくて。
もしかしたらずっとこのままなのかもしれないなんて思ったりもする。
それでも、それを上回るような満ち足りた気持ちに出会えることだってあると知っている。
「立ち上がる方法」を知っている。
だからきっと大丈夫な気がしている。
この日の記憶もまた、そんな「大丈夫」のひとつとなって、迷う日々の道しるべになってくれるのだろう。
ライブの翌日、大阪には余韻の雨が降っていた。
それがなんだか嬉しかったな、amazarashiだけに。
ライブの感想は、ここまで。
ここからは、私のひとりごとみたいなもの。
(ここまでの文章もすでに私情をはさみまくってきたけれど)
今回のアルバムとライブのコンセプトは、自身の悩みと今までにないほどリンクしていた。
以前書いたnote『言葉と音楽と、可惜夜』、『言葉と音楽と、可惜夜(2)』などが顕著。
(ちなみに、ライブ当日までネタバレは踏んでいない)
こんな、影響力も持たない名もなき個人の悩みなど、世間からしたらちっぽけで、取るに足らないことで。
どんなに叫んでも、叫んでも、何かを変える力もなく、誰かの心を動かすこともなく、共感されることもなく、多くは知られることすらもなく、すり抜けていく。流れていく。
たとえばこの文章もそうかもしれない。
かけた時間ばかり積み重なって、それに見合う何かは残せなくて。
身を削った分、ボロボロになって。その間にも周りはどんどん成長して成果を上げて。
側にいてくれた人も、見守ってくれていた人も、一人また一人と興味を失い去っていく。
それでも、ネガティブな姿は見せないように「前向きに」「がんばる」しかなくて。
これ以上、失いたくないから。そうするしかなくて。
……なんて。そんな、まるで自分には何もないみたいな。暗い思考の渦に引きずりこまれたりするんだけれど。
だけど、自分には何もないなんて。今までいいことがひとつもなかったなんて、そんなわけないだろ!って。
寂しくなるのは、他人と比べてしまうから。
でも見渡せば、自分を見てくれている人はちゃんといる。
羨ましさばかりに目を向けて、そんな大切な人たちを見失ったら終わりだと思っている。
自分を肯定するというのは、自分を思ってくれる・信じてくれる人のことを肯定することでもあるのだと、これからも心に留めて生きていきたい。
(逆の立場で、自分にとっての大切な人が「自分なんて……」って言ってる姿を見たら心臓がぎゅっとなるもんね……)
1年ほど前、スクールオブロック(ラジオ)に秋田さんが出演した際にリスナーへ向けた言葉
「そのままで偉い」
を、当時の私は素直に受け止めることができなかった。
自己否定の真っ只中にいて、その言葉に甘えてしまうのが怖かった。
それでも、いつか受け止められるようになったときのために…… とお守りのように心の片隅に置いておいた。
あれから何度も浮き沈みをくりかえしてきて、今もまだ、油断するとすぐに暗い方向へ引きずり込まれてしまう。
ライブへ行くことすら、こんな自分が贅沢言ってごめんなさいと思ってしまったりする。
自身のこの「欠落」は生まれ持ったものなのだろうか。それとも、後天的に備わったものなのだろうか。
それすら分からず、毎夜毎夜、思考の渦の中を彷徨い続けていた。
そんな私が今回のライブから感じたのは「肯定」と「祈り」、そして「人を信じること」だった。
今の自分をつくってきた過去のすべてが、生まれ持った(落っことしてきた)ものすべてが、
忌むべき過去ではなく、愛すべき過去なのだと
忌むべき欠落ではなく、愛すべき欠落なのだと
そして、それらを「肯定」するのは他でもない自分自身なのだと。
そんなメッセージが、ライブ冒頭の「その全てが私である」という言葉に集約されていたように思う。
「自分をまるごと肯定する」だなんて、頭では分かったつもりでもなかなか難しい。
それでもいつかふり返ったとき、辿った道程を愛おしく思える自分でありますように。
この文章をここまで、最後まで読んでくれたあなたにとっても、そうでありますように。
それと、ライブへ行く私に「楽しんできてね!」とか「行けてよかったね」と声をかけてくれたり、行けたことを自分のことのように喜んでくれる人がいたり、そういうのが本当に心に沁みました。
なんだか最近、楽しみなことがあっても直前になって、もしくは終わった直後にそれを台無しにされてしまうんじゃないかっていう恐怖みたいなものがずっとあって。
自分は楽しんじゃいけないんじゃないかとか、また何か間違ってしまったんじゃないかとか、それもこれも全部自分がわるいからだって思考に陥ってしまうことが多くて。
そんなときかけてもらった「よかったね」って声や、自分のことのようにうれしいと言ってくれる人の存在にとても救われました。
今回に限らず、今までずっとそうです。
そんな人たちがいてくれる限り、きっと大丈夫だと思える。
みなさんは「1」です。
少なくとも私にとっては。
いつも本当にありがとう。
【おまけ】
スーパーで青森県フェアをやっていて、ライブの余韻の勢いでこんなの買ってみました。
青森県産のお米、『青天の霹靂』を使ってつくったポンせんべいです。
原材料がお米と塩のみというシンプルさ。こういう素朴なお菓子大好きです。
ごちそうさまでした。
ライブのプレイリストもよければ。
※記事の最後に入場記念品の缶バッジと、APOLOGIES(ファンクラブ)会員 長期入会特典、および退場時に配られたセットリストカードの写真を載せます。
ライブ当日までのお楽しみにしたい方はご注意ください。
amazarashiと、この文章を最後まで読んでくださったあなたに、心から感謝します。
【11/24 追記】
本記事のヘッダー画像を写真からイラストに差し替えてみました。
そしてメイキング。ちょっとした仕掛けがあります。
(noteに直接動画を貼れないみたいなので、Twitter埋め込みでお手間おかけしますが、よければ覗いてみてください)
ツアー完走おつかれ様でした。
そして、ありがとうございました。
amazarashiを好きになれて、本当によかった。
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