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まるではじめから #野心日記 5

小説を書き進める中で、地味に困っていることがあります。
私は自分のパソコンを持っていないので専らスマホで文章を書いているのですが、長編小説ほどの文字数となるとスマホの小さな画面ではスクロールが果てしないのです。
一応、場面やエピソードごとに小分けに保存してはいるのですが、それでもひとつひとつが長いので「あれ?あのエピソードどこいったっけ?」ってことによくなります。
これ全部つなげてひとつの文章にするの大変だな…

ちなみに小説ははてなブログで書いています(もちろん非公開)
メモアプリとかだと、万が一スマホを失くしたり壊れたりして新しい機種に変えたときにデータ消えちゃったらやだなって(「やだな」どころじゃない)
あんまりその辺詳しくないのですけど、はてなブログならスマホが変わろうがログインすればデータはそのままだろうし、確実かなって。

はてなブログのアカウント自体は、noteをはじめる前から持っていたのです。
とあるコンテストに応募しようと思って。結局間に合わなくてそのまま放置していたけれど、活用法があってよかったです。
最終的には夫にパソコン借りるなりしてパソコンで書き上げないといけないとは思うけれど…。

もひとつ、困っていること。
ずっとスマホで文章を書いていると、手や腕が痛くて痛くて。これはパソコンでもそうだとは思うんですけど… 腱鞘炎になったって話とかも聞きますし。

スマホ、小さいながらもそれなりの重さもあるわけで。文章書くには筋肉だって使うわけで。長いこと書いてたらそりゃ疲れて痛くもなりますよね。

痛い。でも書きたい。けどもし腱鞘炎になったりしたら大変。でも書きたい。
保冷剤で冷やしたり、マッサージしたり、腕の下にクッション敷いたり、ときどき休んだりしながら書いています。

あと、当然目も疲れます。
文字酔い?もするし。
やっぱり少し休んだりしながら書き進めています。たまにそのまま寝てしまうけど。

あとは、時間の使い方も困ってることかな。
私は昔から要領がわるいというか、何をするにも時間がかかるタイプで。
書く以外の日常生活もだいたい動作がゆっくりだし、気づいたらぼぉーっとしてるし、書くのも読むのも時間がかかるし…。
内容や文字数にもよるけど、noteやブログを読むのに30分とか、ツイートひとつ投稿するのに15分とか、かけることもあるくらいなので。
するべきこともしたいこともたくさんあるし、疲れたら休むし、眠りもする。

でも、人間基本的に1日は24時間のはずなんですよね。
どうやって帳尻合わせてるんだか自分でも不思議です。
この時間感覚で人間界に(一応)適応しているのはある意味すごいんじゃないかと感心してしまいます。他人事のように。

そして、最後に最近特に困っていることというか戸惑っていることがありまして。
以前、野心日記その2でも書いたのですが、小説の主人公はその物語の登場人物たちであって私ではありません。
私(作者)という存在は「ノンフィクション」で、物語の登場人物たちは私が産み出した「フィクション」のはずでした。

でも、なぜだろう。
書けば書くほど、「私」が滲み出てしまう。
私とは関係ないモチーフやエピソードだったはずのものが、どんどん「私」に重なってくる。近づいてくる。
自分が知らなかった自分の姿さえ顕になっていく。
登場人物たちの中に、「私」が散りばめられていく。

まるで最初からそうなることが分かっていたみたいに、なるべくしてそうなったとでも言うように、曖昧だった設定にも「それでなくちゃならない理由」がカチッとはまっていく。
ある意味楽しいけれど、これはけっこう私にとって問題というか、困った案件でもあるのです。

読んでる時に「私(作者)」の存在がなるべくちらつかないように書きたいけれど、私のnoteだったりTwitterだったりブログや音楽文だったり、私の文章や言葉(ほぼすべてが私という人間のノンフィクション)を知っていればいる人ほど、それは難しいのかもしれないな…と思ったりしています。
まだ、この先どうなるか分からないけども。

やっぱり、自分の中にあるものしか基本的に書けないんだろうなぁ。まぁそりゃそうか。

ここまで書いて、ふと「あとで読もう」と思ってずっとブラウザで開きっぱなしにしていたnoteに目を通しました。
そしたら、ちょうど昨日書き上げたとある文章や、今の私の思考にぴたっとはまるような感覚が訪れました。
まるで最初からそうなることが分かっていたみたいに、なるべくしてそうなったとでも言うように。
出会うべくして出会ったかのように。

人間の想像力は、世界を大きく変化させてきた。

人間が空を飛ぶことを想像したから飛行機が生まれたし、離れた場所で会話することを想像したから電話が生まれた。月に行ってみたいと思ったからロケットが生まれた。

誰かが想像した未来に向かって、この現実世界は変化してきた。

我々は、誰かがむかし頭に思い描いた世界を今、生きているのだ。
望む現実を引き寄せるために、想像力を使わないと。

この発想は、本来もっと自由だったはずの想像力を、ただ単純に、現実を豊かにするためのツールにしてしまったといえる。



逆なのだ。まったくの逆なのだ。

自分だけの想像の世界を作り込むことのほうが、よっぽど重要なことだったのだ。

本来、「現実」なんていうのは、自由な想像の世界をより豊かなものにするための、素材集めのフィールドにすぎないのだ。

現実世界で体験したこと、知ったことをパーツとして、自分の中にある完全に自由な世界を、自分にとって素敵で魅力的なものに作り変えていく。

現実を変えるために想像があるのではなく、想像を豊かにするために現実がある、と考えるべきだったのだ。

(F太さんのnoteより、引用させていただきました)

野心日記その3で書いた「ささやかな自己投資」
小説を書くことを口実に、自分の心が豊かになるようなささやかな投資をしているという話でしたが、その豊かになった心(現実)が小説(想像)に還元されるという意味でも、いろいろ繋がったような気がしたり…?

私が私を語るほどに 私から遠く離れてしまうのは何故でしょうか?
(独白/amazarashi)

amazarashiの『独白』のこの歌詞も、なんだか違う解釈ができたというか、はじめて自分の中でしっくりくる何かが掴めたというか。
そんな気がしたりしなかったり。…だんだん何言ってるのかわからなくなってきました。

とりあえず、今は「そんな気がする」と言うことだけ残してすべてを言葉にはしないでおく。



【おまけ】
とある日のひとこま

6年ほど前に描いたオリジナルキャラクターの絵が出てきました。

てるてる坊主のてるてるくんです。
ここにはいないけど、「てるてる菩薩(ぼさつ)」というキャラクターもいます。
「ええんやで」ってなぜか関西弁でほほえんで後光が差しているようなてるてる坊主です。額には白毫相(びゃくごうそう。仏様の眉間にあるあのまるいの)も。

※追記
てるてる菩薩の絵、みつかりました(というかてるてるくんの裏に描いてた)

私が好きなamazarashiのマスコットキャラクターにもてるてる坊主くんがいますが、私がamazarashiに出会ったのは4年ほど前なので影響を受けたというわけではありません。
もともと、てるてる坊主が好き。かわいいよね。
(amazarashiのてるてる坊主くんはいろんな子がいて中には不穏な雰囲気の子もいるけれど…)

プラ板とレジンでこういう工作とかもしてました。


昨日は一日中雨でした。
休みの日に家の中から聴く雨の音が好き。

今日は晴れ。洗濯物干すぞ。

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