[エッセイ] 百年の孤独と死んだ君の魔術

別れてから一週間が経った頃、恋人だった人が電話をしてきた。

そのとき僕はJR山手線のどこかの駅のホームにいて、アナウンスと雑踏の中で電話に出ると、君は、ねぇお元気?、などと言う、僕は、そうだね、などと返し、で、何?と催促すると、君は一言だけ言ったね、あなたは天才だから物語を書きなさい。それだけ?、それだけ、で、おしまい。

乗ろうとしていた電車が完全に停車する前にすでに電話は切れていて、僕はスマホをジャケットの内ポケットに入れ、君の言葉をチューインガムみたいに噛みながら電車に乗った、車窓から流れる景色を見ていると、あの黄色い秋の、僕の大学のキャンパスにいた君の姿が見える。

小学校から登校拒否していた根っからの学校嫌いの君が、なぜ僕の大学にいたのかはいまいち覚えていない、たぶん気まぐれだったんだろう、君のことだから、あなたのいる世界を見ておきたいとか、そんなことを言ったんだろう、ただ一面銀杏の世界に君がいるのが嬉しくて、大学の連中に見せてやりたい気持ちだったことは覚えている。

いつもどおり君は、メインストリート脇のベンチに座るなり、再びすぐに立ち上がって、ちょっと待ってて、と言って走り出した。君のちょっとは本当に気まぐれで、一秒のときも一時間のときもあったけど、僕は特に気にせず、コートの襟を立てて行き交う学生たちを眺めた、秋がそこにあった。

ただいま、と君の声がしたものだから、もう帰ってきたのかい、と言おうとすると、はい、と君は文庫本を突き出したのだった、これは?、あげる、何?、たぶんあなた好きだと思うの、本?、そう本、もしかして読まない?、まぁ、うん、読まないね。たったの一冊も?、うん一冊も。そう、書くのに一冊も読まないのね、そう言いながら君は、捨ててもいいからもらっといて、プレゼント、と言ってその文庫本を僕の胸に押し当てた。

本にはカバーがかかっていて、それを指の腹で引っ掛けて覗くと、宇宙か深海かのような漆黒が湛えられている。それは僕が当時、誰に見せるでもなく書いていたアメーバブログの記事だった、そして君は、そんな僕のヴンダーカンマーにやってきた最初で最後で、すべての来訪者だった。

君は最初、僕の詩の感想をコメント欄に綴り、それから自分の近況を綴り、やがて僕のことを書くようになった、すなわちそれは僕と会ってみたいということで、僕も好奇心から君と、名も知らぬ舞台を一緒に見に行き、名も知らぬ町でお酒を飲んだ。君はタンクトップに薄手のブルーのパーカーを着て、片脚を椅子に上げ、もう片方の脚をぷらぷらとさせながら煙草を吸っていて、緊張気味に咳払いをしてから、天才よ、と言う。さっきの舞台?、ううん、あなたが。僕?、そうあなたの詩、と言い、気忙しく新しい煙草に火をつける、徐々に世界は閉ざされ、君の気配と煙草の火の灯りだけが残っている。

君がベッドサイドの照明のつまみを回すと、部屋は明るくなり裸の君がいる、僕らがさっきまで泳いでいたシーツは白い波を立てていて、君はその中にこちらを背にして横たわっていたのだった。そして、灰皿の縁で煙草の火を弾き、横顔を向けながらふぅと煙を吐く。

僕は君の背骨の凸を眺めながらこんなことを聞く。君は本当に本が好きだけど、そうね、中でもこれというおすすめはあるのかい?、あるわ、すべての物語の中でダントツの一番は、百年の孤独。二十億光年ではなく?、それは谷川俊太郎よ、そうだったね。百年はガルシア=マルケスの作品。海外?、そう、南米。どんな話?、そうね、ある一族について何世代にも渡って書かれた話。長そうだね、と言いかけた僕は当時、本当にただの一冊も小説を読んだことがなかった。芥川も、太宰も、村上春樹も、サリンジャーも、ヘミングウェイも、現代の流行り文学ですら触れたことがなかったのだった。君は僕の方に向き直って、あなたはお気に召さないかもしれないね、でもね、と言って煙草を弾き、あなたの書く文章と似ているわ、と言ったのだった。

君は、僕の詩を読んでマジックリアリズムのようだ、と言ったが、それがガルシア=マルケスのお得意の手法だという事実は、それからもっと後になって知ったことだった。マジックリアリズム、魔術的、リアリズム。悪魔的な君から放たれた魔術は、僕をいまだに惑わし続ける。君の書いたマジックリアリズムの中で、僕は奔流に飲み込まれる、手を振り回して、助けてくれ!と叫ぶ、寄る辺もないまま流され、体が何度も大きく浮き沈みし、咳き込み、ようやく手を伸ばし、僕は書架から百年の孤独を引き抜く。

大きな書店にも在庫がなく、ようやく見つかったのは名も知らぬ古書店の片隅、帯が半分破れているものの、百年の孤独は相応の厚みと重みがあった。君がいなくなってから初めて迎えたある晩夏の日のことだった。

その本が今もまだ僕の手元にある、が、まだ読んではいない、もう君が去ってから八度目の夏が過ぎたが、開きすらしていない。僕は百年の孤独の最中で、あなたは天才だから物語を書きなさい、と君に言われたままに、こうして君のことを書いている。

君はもう死んでしまったと思うけど、君の魔術は未だに僕を翻弄しているのだ。

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ナナシロ

ナナのエッセイ

ナナシロのエッセイをまとめているよ。

コメント1件

素敵なエッセイです。
私にも心に残るキミがいたなぁ…なんて思い起こしたりして…。
心が現実から一瞬引き剥がされて心地がよかったな。
ありがとうございました。
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