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そして「肯定」に至る轟音 - monocycle『strawberry ep』に寄せて


【soundcloud】 https://soundcloud.com/monocycle_band

【twitter】 https://twitter.com/monocycle_band


白昼夢のような淡い音像と加速する焦燥感。平熱の日常の異様な肯定感の爆発。優れた表現が全て本質的にサイケデリックであることを確信させる天然サイケデリア。monocycleの1st EP『strawberry ep』は、その持てる才能とプリミティブな衝動の爆発が、青春の幻のように光り輝く瞬間を刻み込んだ奇跡の作品だった。この、彗星の如く北東北の小都市に突如出現したバンドの存在は、そこに暮らす私たちの他愛のない日常にとって、全くの青天の霹靂であった。なぜこんな辺鄙な田舎町に、このようなモダンでオルタナティブな音楽性を持ったバンドが存在するのか全く信じられなかった。たった4曲の(うち1曲はインストの小品)、実質3曲に満たないEP。繰り返し聴く度に狂喜と困惑に襲われ、やるべきことがまったく手につかなくなってしまった。全く不意打ちの混乱と衝撃だった。数年に一度現れる、聴き手のパースペクティブやアティチュードの更新を迫るメルクマールとしての作品。戦慄や畏怖さえ覚える程の、そのような作品に出会えることは、音楽ファンにとっては、無上の喜びである。見慣れた日常が突然、一変してしまうような衝撃。未知の方角へ向けて進んで行く新しい物語の始まり。それは、私たちの新しい希望でもあるのだ。

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彼らの存在を知ったのは、全くの偶然だった。あるイベントのため、DJをネット上で探していたところ、偶然彼らのライブ映像に目が留まった。赤いテレキャスターを抱えた、ショートカットにボーダーシャツの少しだけ意思の強そうな顔立ちの女性ボーカル。これまたボーダーシャツにテレキャスターの、ひょろひょろとなんだか頼りなさげな黒縁メガネ男子のギター。時に絶妙なフラットで掛け合いながら歌われる、いわゆるシューゲイザーやオルタナティブロックに影響を受けたであろう轟音サウンド。ボーカルもギターもフラットしまくりの、ヘロヘロのフィッシュマンズの『ナイト・クルージング』のカバー・・。心ある長年のインディーロックファンなら、これに心を動かされない者はいないであろう。気になって彼らのsoundcloudやtwitterを辿ったところ、漠然と県外のバンドなのだろうと考えていたのが、なんと地元のバンドであることが判明。私は強い衝撃をうけた。いかにもインディー・ギターな小奇麗なアートワーク、全て小文字で統一された曲名やバンド名、轟音ギターに全く聴き取れない男女ツインボーカル、驚くほどナカコーやケヴィン・シールズを連想させる男性ボーカル、ボーダー好き、赤いテレキャスター、フィッシュマンズのカバー・・etc

恐らく20代前半であろう彼らが、先人のパイオニアたちの、いわゆる“シューゲイザー・マナー”を「勉強」したであろうことはすぐに想像がついた。私自身は、長年ロックを聴き続けて来た、既に性根の腐りきった、すれっからしのロックリスナーではあるのだが、何だかこの既視感に溢れた微笑ましさに小躍りした。そして彼らのことをネット上の音源や動画で知れば知る程、彼らに対する興味が俄然湧いて来て、どうしてもライブが見たいという衝動が日に日に湧き上がってくるのであった。そして「その日」は、意外にもすぐにやって来た。彼らのtwitter上で告知されていた10月末のライブは、遠方で行われるため半ば諦めていたのだが、急遽地元のロックバーで行われるライブイベントに参加が決定したのだ。いつ梅雨が明けたのかも分からない長雨がやっと止んだ8月末の土曜日。私は少々緊張した面持ちで彼らのライブに出かけた。

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昨日も20年前も変わらない、まるで時間の停止したような北東北の小都市の、場末のロックバー。開演前、どう贔屓目に見ても、客より多いバンド関係者と思しき人々の中に、目当てのバンドのメンバーを探す。しかし、全く見つからない。楽屋に引っ込んでいるのだろうか?そうこうしているうちに最初のバンドが登場。さっきまでバーカウンター内で忙しく動き回っていた女性バーテンダーや、受付のチャージ係の女性が、ゾロゾロやって来て各々楽器を携えスタンバッている。この田舎町の小さなヴェニューでは、全てがお互いの連携と協力なのだ。最初のバンドの演奏が始まる。打ち込みのリズムにファンキーなギターカッティングとR&B調のボーカル。うん、悪くない。ベースの女性が、若いころのバッファロー・ドーターのシュガー吉永にそっくりで、そればかり見ていた。ほどなくして最初のバンドの演奏が終了。すぐに二組目のバンドのメンバー達が準備を始める。だが、しかし、何かがおかしい。この頃から何か違和感を感じ始める。今日の出演バンドは全部で四組。トリは全国ツアー中のバンドである。三番目は確かこの店のマスターのバンドだったはず。今、この目の前で準備をしているこのバンドは・・。驚くほど小柄な、まるで中学生と間違われてもおかしくないような姿格好の女の子と完全にその辺のアンちゃん風情のギタリスト。なんだかズングリした男二人のリズム隊。何なんだろう、この人たちは・・?そういえばこのギターの青年の履いている足元のニューバランス。家を出る前にtwitterで見たような・・。これが動画で何度も繰り返し見た目当てのバンドなのだろうか?動画で知っているイメージと目の前の人物が全く重ならないのだが・・・。どうも俄かには信じ難かった。

バンドをバックにピアニカとシロフォンを使用した牧歌的な曲調のインストで演奏は始まった。「なんだ、違うじゃん!このバンドじゃないよ。」私の知っている目当てのバンドは、爆音のロックバンドのはず。これじゃない。だが、しかし、それも束の間。オープニングのインストの後、どこかで聞き覚えのあるギターのイントロがすぐに聞こえてくる。動画で散々繰り返し見た、聞き覚えのあるフレーズ。そして、畳み掛けるように加わるリズム隊。爆音で鳴らされるギター。その大音響の彼方から、あの「歌」がやって来る。私は観念した。呆然として、その後のことはよく覚えていない。持参したデジカメも撮るのを忘れてしまっていた。エンディングのバンド一丸となった轟音サウンドの爆発だけが印象に残った。至近距離からの大音量のギターの音で、久々に耳が遠くなる感覚を味わった。正味20分ほどの演奏。メンバーの掛け合いのお喋りで和ませる場面もあり、場は和やかであった。

演奏終了後、遠くなった耳でぼんやりとバンドのメンバーの様子を眺めていると、とにかくノリのいい愉快な青年たち、といった印象なのであった。シューゲイザーから連想されるような陰鬱さなどは微塵も感じられないのである。いまどきのシューゲイザー・バンドは皆そうなのかもしれないが、とにかくこの青年たちときたら、他のバンドが演奏しているときは、最大限盛り上げ役に徹して、走り回るわ狭い会場でモッシュはするわ、最前列で手扇子はするわ大変な騒ぎなのである。おまけにベースの青年などは、メインのバンドの後ろで、ずっとビールサーバーの樽(?)を振り回している。何なんだろうかこの人たちは。終いには、なんだか見ているこっちまで楽しくなってくるのである。他の出演バンドも基本的にトークあり笑いありで盛り上げることに徹する。都心のバンドのように黙々と演奏して一言も喋らず去って行くというようなことは、ここでは基本的に皆無である。要するにいつもの仲間たちとのいつもの地元ノリなのであるが、とにかくひたすら楽しいのである。それでこっちも柄にもなく腕を振り上げたりして、「イエィ!」などとやってしまうのである。アホである。イベント終了後、100円ショップで購入したと思しきプラスチックの工具箱に、物販用の自らの大量のCDを入れて会場をウロウロしているベースの青年を捕まえ、彼らのCDを購入。彼らの作品を手に入れるには、今のところ、この方法しかない。やっと一つ空いた椅子に腰掛けて休んでいると、先ほどのベースの青年とフライヤーを配っていたギターの青年がやって来て、すごい勢いで話しかけてくる。まるで何か怪しい勧誘のような、そのあまりのフレンドリーさに呆気にとられてしまった。一体何なんだろうかこの人たちは?終演後も会場は、まだまだ馬鹿騒ぎが続きそうな気配だった。ただただ楽しい田舎町のロックパーティーの一夜。私の日常は、この日を境に何かが変わってしまった。全く狐につままれたような気分だった。しかし、何か奇妙な満足感に包まれて会場を後にした。

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パーティーが終わり、それぞれの日常へ帰っていく。他愛もない田舎町の日常へ。twitterのタイムラインを眺めていると、バンドのメンバーたちは、早々と現実に復帰したようだった。「飯を食った。」「吐きそう。」「i phonの調子が悪い。」「眠い。」「部屋を模様替えしました。」「新しいバンド名を考えました。豆腐です。」・・etc 自分はといえば、週が明けても腑抜けたような、ずっとパーティーの記憶を引きずっているような感覚が続いた。そして、何となく資料参照のために、物販で購入したCDを聞き始めた。

それは、驚くべき作品であった。何もかもが理解を超えているように感じた。次々に襲ってくる、混乱、困惑、衝撃。言葉にしようとしても、意匠と加速するイメージの乱反射でどこに焦点を合わせていいのか分からない。白昼夢の中で危険な想像を加速させるようなG/Voのmorinoriの歌。異様な熱量で暴発するギターの超現実感。夢で見たサーカスのような原風景。散りばめられた過去の意匠と完成された楽曲。彼らは一体何者なのだろう?自己イメージの演出に長けた、自らの趣味の良さとスタイルを愛する確信犯なのだろうか?ヴァース・コーラスの緩急の鮮やかなコントラスト。絶妙のメロディーラインと、そこに乗る常に不安定なヴォーカルの妖しい魅力。数多の国産シューゲイザーバンドたちが追い求め続けてきたであろう夢のサウンドを、彼らは、確かに手にしていた。なんということだろうか。たった3曲でこんなことを可能にしてしまうバンドが、こんな田舎町に存在するとは、全く信じ難かった。私は、狂喜と困惑で熱に浮かされたようにこの作品を聴き続けた。到底理解できるとは思わなかったが、いくら聴き続けてもどうにも腑に落ちない謎が残っている気がした。

このEPの実質の最終曲で彼らは、その活動前期のハイライトシーンであろう『ok』を爆発させる。日常を俯瞰するモノローグのような男女の掛け合いの歌が、いつしか日常を離陸して異様なサウンドスケープの轟音に加速していくーライブでは、終盤に耳を塞ぐ程のギターの爆音で奏でられるこの曲『ok』で、彼らは、一体何を『肯定』したかったのだろうか?意図的にミキシングレベルを下げたであろう、その歌声に、いくら耳を澄ましても何も分からない。北東北の小都市に暮らすささやかな日常だろうか?昨日も今日も変わらない田舎町の怠惰な現状追認主義だろうか?それとも、お約束の、いつもの「それでも世界は美しい。」だろうか?それとも、かつての私たちを魅了した、それでも進んで行く「熱力学的キャラバン」とやらだろうか?しかし、実際のところ、私たちの日常というものは、時に怠惰であったり、突然突拍子も無く「世界は美しい!」と叫んでみたり、それでも「進んで行くこと」に思いを馳せたり、そんな他愛も無い思いの行ったり来たりの繰り返しなのであり、結局のところ、ごく平凡な生活者である私たちの幸福というものは、「日常レベルの自己肯定感」や「連続性への疑いの無さ」といったところにあっさりと落ち着くだろう。それは、内部からの「止むに止まれぬ衝動」であったり、外部からの物理的な衝撃であっさりと断絶可能ではあるのだが。私たちの存在というものは、どんな境遇にあろうとも、本質的に自分の人生を肯定したいと願って止まないものなのであろう。monocycleというバンドは、まさに「自己肯定感」や「連続性」といった日常性にこそ、私たちの生の幸福というものが存在することを、その音楽性でダイレクトに確信させる稀有なバンドなのである。そこに、このバンドのオルタナもシューゲイザーも超えたワン・アンド・オンリーな魅力があるのだと思う。この轟音サウンドは、私たちの他愛の無い、しかし、かけがいの無い日常を全力で祝福しているのだ。

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結成から一年余り。たった四曲入りのEP一枚で、彼らは既に表現のピークを掴んでしまったようにも見える。果たして彼らは、その現役活動中に、その才能を広く世に認められる日が来るであろうか?多分そんな日は来ないだろう。そもそもそんな野心すらないだろう。週末に想いを馳せながら、彼らは、今日も、この北東北の小都市の相も変らぬ日常をやり過ごしているだろう。世界は相変わらず退屈である。しかし、彼らの音楽を聴いていると、この退屈な世界にも、まだ希望があると信じられるのである。





monocycle/大館/秋田/弘前/青森/shoegazer/2014


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