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今を壊して、未来の記憶になることもある

よく、机や鞄の中が綺麗なひとは仕事が出来る、といったような話がある。それが正しいのなら、私は恐ろしいほどに仕事ができない人間だということになってしまう。

机の上は綺麗だけど、それはちゃんとした仕事机を持たずに食卓を机代わりにしてるからだ。鞄の中は、さながら小宇宙で、手を底に突っ込むと、昨年のコンビニのレシートやいつ買ったかわからない菓子の袋(しかも中に少し残っている)が出てきて、我ながら少しクラっとする。

だから、というのもあれだけど、私は本が綺麗に保てない。帯はおろか、カバーも取ってしまって(これは昔からの癖だ)、数日間、小宇宙と地球を行ったり来たりして、立派にボロボロになり本棚に帰還する。

ただ、それは見た目だけの話ではない。とにかく本は汚すもの、と、躊躇なく折ったり書き込んだりするので、私は今まで誰かに本を貸したことがない。他人には見せられないほどに、思考の跡が残りすぎているのだ。

家を片付けていたら、珍しくブックカバーにかぶせられた文庫本が棚の上から出てきた。カバーを外し、「ああ、この本か」と思う。確か去年知り合いに勧められて買ったのだ。なぜブックカバーをつけたのかは覚えていない。中身も真っ白だった。

読んだはずだけど、記憶にまるで残っていなかった。パラパラとめくり、ぼんやりと思い出す事はあったけど、あのボロボロの文庫本を開いた時ほどの鮮烈なイメージの回帰は最後までなかった。たぶん、あまり“身が入ってなかった”のだろう。

本をどう読むかなんて、人それぞれの美学があるから、どうのこうの言うつもりはない。ただ、私の場合は“綺麗に残そう”とすると、途端に淡い記憶になるような、そんな距離感のものになってしまうようだ。

そういえば学生時代、綺麗好きの友人が本を貸してくれたときがあったけど、意外にも本の中に注釈を書き込んでいて驚いたことがある。ちなみにそれも、綺麗に返そうとしてたせいで、残ってる記憶はその小さな驚き程度だ。

何でもそうだけど、何かを綺麗に残そうとすると、未来には輝かないつまらないものになってしまうようだ。立場も名前も実績も恋愛も。汚そうというか、ちょっと壊そうとするくらいの、遊び心と自分ごとの意識があるといいのかもしれない。

……なんて、真っ白な本のページを繰りながら思った。別に、机や鞄が汚くていい理由にはならないんだけど。

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