おとなになって「あれもこれもできる」といえること

この間友人2人と飲んでいるときに、各々の"ストレスの解消法"の話になった。「吐くまで食べる」と言った友人に対して、もう一人の友人が「確かに楽になるよね」と言う。私はその「楽さ」を知らないし、多分今後も知り得ない。もうかれこれ15年以上は吐くということをしていない。嘔吐恐怖症で、吐かないことを最優先に生きてきた。食べ過ぎない、傷んだものは食べない、車酔いはしないけど長旅になりそうなら酔い止めを飲む。あいにく、お酒は強く、いくら飲み過ぎても吐いたことはない。吐きたいわけではないけど、嫌なことがあったときは"とりあえず寝る"という選択肢しかない私にとって、「吐く」という選択肢がある人たちは正直羨ましい。

「どうしたらひとは幸せになれるだろうか。」昨年小説の同人活動を一緒にやっている仲間とそんなことを議論した。その時私は「諦めることだ」と思った。ひとは幸せを求めているうちは、決して幸せになりきることはできないのだと思ったのだ。しかし今は、なんとなく選択肢の多い人生こそが幸せをもたらす種なのではないかと思う。

こどものときは、お花屋さんでもお姫様でもパパのお嫁さんでも、なんでもなれる気がしていた。しかし、大人になれば自分の身の丈を痛いほどに知る。しかし、その己のキャパを知った上で、自分にできることが増えていくことは、これ以上ない幸せだと思う。たとえば恋人がいたとして、「もっと他にいいひとがいるかもしれない」とか、「このひとにフられたら終わりだ」と思うことは不幸だけど、「このひととだったらこんなことがしたい」ことをたくさん思いつくのは幸せだと思うのだ。大人になって思う「あれもこれもできる」というのは、これと決めた相手・ことの中にどれだけ”自分ができること”を見出すかだと思う。

なんてことを、今日新しい仕事の打ち合わせをしながら考えた。よそ見しながらも、自分のやりたいことを頑張っていると、突然新しいルートが現れたりするものだ。

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