見出し画像

不安から解放されたいのなら“目のやり場”を作る

過去に“ぼんやりした不安”を抱えて服毒自殺をした文豪がいた(※)が、

今や毎日のように、TwitterやFacebookでは「死にたい」が溢れるようになり、ネット上では「あらゆるモヤモヤは◯◯で解決するって本当?心を強く保ちたいなら地方に行ってプロテインを飲め」みたいな記事が公開され続け、書店では「やりたいことを見つけるためには他人の目を気にせず嫌われないためにすべき50のこと」みたいな自己啓発本が乱立するようになり、

私はそんな凡庸な理由では自殺をしづらくなってしまった。

※自殺理由についてはただこれ一つとも限らず、そもそも本気で自殺をする気であったのかも不明だが、私は専門家ではないのでそこをスルーする。

不安障害で苦しんでいたあの頃、私はひとつ気づいていたことがあった。

それは、“何かに集中しているときは症状が出ない”ということである。

面白い漫画を読んでいるとき、散らかった部屋を隅々まで綺麗にしているとき、好きな人とお酒を飲んでいるとき、私はあらゆる不安から解放されてリラックスしていた。

電車に乗っていて動悸や息切れが辛くなったときも、誰かと連絡をとっているうちに不思議と症状が和らいでいく。その後、瞑想をする習慣がついてから、それは確信へと変わった。呼吸だけに集中する安らいだ時間。意識が一点に集中している限りは、人は不安で取り乱すことはない。

同時に、パニック状態に陥る自分というのは、“露出の激しいお姉さんを前にあたふたする男の子”の姿と似ているということにも気づいた。

どこを見ても肌色で、目のやり場がわからない。胸元を見たら「エッチ!」と怒られるかもしれないし、かといって目をそらしたら逆に「意識しすぎだろキモい」と言われるかもしれない……と悩みながら、どうにもこうにも落ち着かない。

しかしそこで、目を閉じ、呼吸に集中すれば(勇気があるのなら、彼女の目をじっと見つめるのもいいけど)、次第に脈拍はゆっくりと穏やかになっていくだろう。

不安な感情からは、“目のやり場”を作り、意識を一点に集中させることができれば、解放される。逆にいえば、不安でパニックになっているときは、やることがたくさんで、もしくは死ぬほど退屈で、目のやり場に困っているときではないか。(そういうときは、TODOリストを整理したり、新しい仕事や趣味を始めたりすると落ち着いたりするものだ)

社会人になってからも、学生時代ほどではないが、ぼんやりした不安に襲われる瞬間というのは多々ある(このままこの仕事で食っていけるのかな……とか)。最近は、それを食べることで解消する癖がついてしまって、“太り”が止まらない。右肩上がりなのだ。毎日増え続ける体重に恐ろしくなって、今夜はブログを書くことに集中してみることにした。書き出してから今まで、手元にあるマックのポテトには手をつけていない。

書き終わったら、また食べ始めてしまうかもしれないけど。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?