世の中、脊椎反射で怒るひとの方が多いのかもしれない。

ここで気をつけなければならないのは、フォロワーとしての指摘は、「意見」に対して行う、ということです。反対意見であっても、人格を否定するものではいけません。あくまで、指摘は意見に対して行うようにします。(古川聡『宇宙飛行士に学ぶ心の鍛え方』)


先日とある編集セミナーに出席した際、会場から「炎上しないように気をつけていることはありますか」という質問があった。その場での講師の方の回答としては、ざっくり言えば「嘘をついたなどでなければ、必ずしも悪いことではないし、よっぽど変な人に絡まれた場合は "次からは、気をつけよう"でブロックすればいいんじゃないですかね。変なプライドなどはもたずに」という旨だった(超意訳です)。

そもそも何を「炎上」とするのか、という話ではあるけど。"議論"が生まれる文章は、どれほど文章が拙くても価値のあるものであり、それにより議論が巻き起こることが"炎上"なのであれば、むしろ歓迎すべきことだろう。なので、大切なのは「つまらない」とか「間違っている」と言われたときに、発信者がいちいち傷つかないメンタルを持つことなんじゃなかろうか。

今朝、上記ツイートに「確かになあ」と思ったので、こうやっていまブログを書いている。「読解力」というのは、一朝一夕では身につかない筋力のようなものだ。「こうしたら簡単に問題が解けるよ」なんていう付け焼刃の公式は、ある程度のボリュームのある文章を、自ら思考して理解して飲み込むという消化作業にはあまり寄与しない。

Twitterなどが顕著だと思うが、「生理的に受け付けない言葉や存在」に対しての脊椎反射的な反応というのが多い。インターネットが冷たいイメージを払拭しきれないのも、こういった「心なき言葉」が蔓延しやすい部分があるんじゃないだろうか。もちろん、その人自身の論理で批判しているものだってたくさんあるけれど、いわゆる攻撃的な(言葉自体で傷つけるような)語調のものは、正直目も当てられないほど読解力に乏しい人の方が多い。

そして、最初の引用に戻るんだけど、こういう脊椎反射的な意見を言う人って、その言葉自体を批判しているというよりは、「それを発言している存在」自体に我慢ならないのだ。言葉のナイフを振りかざす人間に、どれだけの哲学と愛と知識があって、どれだけ理論的にあなたや私に議論を申し込んでくるのだろう。

"意見"と"存在"を履き違えて否定する存在など、恐るるに足らず。インターネットに限らず、感情先行型の喧嘩屋というのは多数存在するもので(一つの失言で、「あいつは救いようもないダメな奴だ」なんて、そんな窮屈な世界はこっちから願い下げなのだ)。意見を全て真に受ける必要はなく、必要な部分を取捨選択していく姿勢が必要なのだ。

でも、それが目的の遂行に向けた指摘であれば、まずは指摘してくれたこと自体に感謝し、「ありがとう」と伝える。それでけで指摘しやすい雰囲気を作ることができ、取り入れるべきものを取り入れればあなた自身にとってもメリットになるはずです。もし、受け入れられない指摘であっても、指摘した人が「自分が指摘したこと自体は受け入れられた」と感じられれば、余計な敵対心をあおることも少なくなるのではないでしょうか。(古川聡『宇宙飛行士に学ぶ心の鍛え方』)

最近の炎上騒動を見ていると、若気の至りや過ちをコテンパンに叩いて再起不能にしようとしている人々が多いように感じて。それってつまり「嫉妬してるんじゃないの?」。

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